礼拝説教要旨(2005.05 29)
互いの重荷を負い合って (ガラテヤ 6:1〜5)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。」(5:16)キリストにあって自由とされ、新しく生まれ変わった者は、互いに愛し合い、仕え合って生きるため御霊によって歩むように、また御霊に導かれて生きるようにと、パウロは語っていた。キリストにあるなら、その人は必ず御霊の実を結ぶからである。それは具体的には次のようにして・・・と教えが続く。
1、パウロは、常に神が成し遂げて下さることの完全さを確信していた。しかし同時に、人がなおこの地上にあって不完全で、罪と戦う現実の中にいることを忘れなかった。神が求めておられる完全や聖さの標準を示すとともに、そこに到達し得ない人間の苦悩を知っていたのである。それで「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」と語り、さらに、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」と命じるのである。御霊の実として結ぶ「柔和」は、どのようにして生きて働くのか・・・。
(5:26〜6:1)
キリストにある者は、御霊によって聖くされているとしても、日々の現実においてなお「あやまち」に陥るのである。故意に罪を犯すことはなくても、知らずして罪の誘惑に陥ることは誰にでも起こる。そのような時こそ、御霊の人の出番!である。「柔和な心でその人を正してあげなさい。」(※「正す」:壊れたものを修繕する、元のように直す。)非を責めたり、罰を与えることではなく、諭して、過ちに気づかせることである。カギは、兄弟を愛する愛にあり、「柔和な心で」と言われる。すなわち、「神に守られ導かれていないなら、自分も同じ罪に陥ってたに違いない」とする謙虚な心があるかないか、「私も同じ弱さを持つ人間です」と告白する心から、兄弟に相対することである。
2、同じ弱さを持っていると認めること、この単純な作業(自己認識)を人は容易に棚上げしている。そのために互いに愛し合うことが疎外される。仕え合うことも、助け合うこともうまく行かない。「あやまち」に陥って苦しむこと、そこから生じる痛みや悲しみが、その人にのしかかる「重荷」となっている時、自分も同じ誘惑に陥るかもしれないと感じない人が、誰かの隣人となるのはほとんど不可能である。自分も弱さの中で、神に守られていること、神の恵みによって今があることを語れる時、その人の隣人となれる。パウロはそのような意味を込めて、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と勧めている。(2節)
パウロは、自分に正直になりなさい!と教えている。(3〜4節)誰もが自分一人で完全であるはずがなく、地上において完成することはない。今現在、全ての人は途上にあり、何かを成し遂げたとしても、他の人との比較で捉えることは控えなければならない。ついつい誇りたくなる多くの人に対して、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい」と言うのは、そのような自己過信やうぬぼれを戒めているのである。他の人との比較でなく、神の前に露な自分こそ認識して生きることが大切である。神がよしとして下さるところに達し得たかどうか、そのことを心に留めるなら、必ず心低くすることが導かれる。またそう導かれることが大切である。
3、神の前の自分自身を見つめること、どんなことがあっても他の人との比較でなく、自分を知ることをパウロは教えている。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(5節)2節で「互いに重荷を負い合い」なさいと勧めるが、ここでは言葉を換えて「自分自身の重荷がある」と言う。(※5節の言葉はより重い重荷を指すのか?)
互いに負い合う重荷の他に、どうしても自分で担わなければならない重荷があると言うのである。一人一人に、自分が果たすべき責任を神が与えておられるからである。そのことを知った上で互いに重荷を負い合うことが求められている。それは祈りや励ましの言葉により、また顔と顔を合わせて交わること、時には共にいることで果たされる。
御霊の実を結んで生きる人にとって、自分の重荷を負って生きるのは決して一人ですることではない。キリストが内に住んでおられるので、キリストが共に負って下さる大きな助けがある。その助けがあるので互いに重荷を負い合うことが可能となる。人生にどんな困難が襲うとも、危機が迫るとも、また悲しみに包まれるとも、キリストが共におられるので平安は揺るがない。
<結び>パウロは、御霊の実の「柔和」について、互いの重荷を負い合うことにおいて確かに表れるようにと教えている。自分を誇れる人は誰もいないのである。弱さや愚かさを認め、また認め合って重荷を負い合うことによって、初めて愛をもって互いに仕えることができるようになる。キリストの教会は、何としても「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」との戒めに聞き従うことが求められている。
私たちは、一人一人で神の前に出る時も、また教会の交わりの中で神を仰ぐ時も、心安らいでいるだろうか。喜びをもって集っているだろうか。「柔和な心」で互いに言葉を交わし、重荷があるならそれを明らかにして、互いの重荷を負い合う交わりが導かれるよう心から祈り求めたい。それぞれに祈りの課題があり、果たすべき責任や務めがある。自ら果たすべきは先ず主にあって果たし、次に祈りや励ましによって、負い合うことのできる重荷は、互いに遠慮なく負い合って、キリストの律法を全うさせていただきたい。必ずや主が私たちの歩みを導いて、大いに祝福して下さることを信じて!!


