礼拝説教要旨(2005.05 22)
御霊によって歩みなさい (ガラテヤ 5:16〜26)
キリストによって自由を与えられた者の歩みは、人間の肉的な思いを満足させるものではなく、与えられた自由をもって互いに仕え合い、互いに愛し合うものとなる。キリストがその人の内に住み、その人を生かしているなら、その人は確かにキリストにあって自由な者とされ、愛をもって生きることができる。パウロはその秘訣を更に「私は言います。御霊によって歩みなさい」と教えている。(16節)
1、パウロは、ここで御霊による歩みと肉による歩みを対比している。「肉による歩み」とは、生まれながらの罪に支配された生き方であり、「御霊による歩み」とは、罪を赦された者の生まれ変わった生き方である。それは何事も自分中心の生き方と神中心の生き方との違いであり、二つの間には対立があって、その溝は決して埋まらない。両立は有り得ず、御霊で始まった信仰を肉で仕上げることは不可能である。御霊で始まった信仰は御霊によって導かれることこそ肝心となる。
けれども、キリストにある者はこの地上で生きる限り、確かに御霊の導きの下にありながら、なお肉の支配のおよぶところで生きている。そのため霊的な戦いは時に激しく、しばしば「自分のしたいと思うことをすることができないのです」と、弱さを思い知らされる。だからこそ、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と命じられている。そしてパウロは、肉の行いは明白であると、より具体的に遠ざけるべき罪のリストを提示する。かつてはその中に沈んでいたことを忘れないために、また再びその罪に陥らないために。(17〜18節)
2、パウロは15の罪を示し、肉の欲望のままに生きることがどれだけ罪深いかを訴えている。性的な罪、偶像礼拝の罪、隣人愛を破る罪、酒がらみの罪等など、「そういった類のものです」と言って、罪は数えられないほど数限りないと気づかせてくれる。性的な罪が先ず第一に挙げられるのは、神を恐れない異教の社会において、不品行などが罪と認識されないままになっていたから、また性の乱れが余りにも甚だしかったからである。教会もこの罪の誘惑から守られなければならなかったのである。(19〜21節)
人が肉の行いに走るとき、自分が自由であることを誇るものである。不品行しかり、偶像礼拝しかり、敵意や争いしかり・・・・。酩酊や遊興に至っては、何が悪いと開き直る者がいるであろう。しかし、それは神を恐れない者の姿であり、罪の奴隷の姿、罪を止める自由のない者の姿である。真の自由とは、罪を犯す自由ではなく、罪を犯さない自由、罪を踏みとどまる自由である。その罪を離れ、その罪の誘惑に近づかないように生きる力を神が与えて下さったのである。罪の具体的な一つ一つを覚えるのは、その一つ一つから、確かに自由とされていることを悟るためである。
3、避けるべき罪を列挙した後、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」とパウロは語り掛けている。ここに挙げられた御霊の実は、キリストによって自由とされた者が、御霊に導かれるとき、内側から造り変えられた者として結ぶ実である。それらは肉の行いの対極にある。御霊の導く「行い」ではなく「実」と言われるのは、「行い」を導く内的な力としての御霊の働きを指すからである。(22〜24節)
御霊の実は、愛から自制までの9つの実と捉えるのか、ぶどうのように一房にいくつもの実がなるように捉えるのか、どちらとも捉えられる。いずれにせよ9つの実は別個に働くのではなく、互いに関連して一つの実として働くと考えられる。(※「実」:冠詞つき、単数形で記されている)愛はこれら全てを貫き、隣人愛を全うするためには、そして互いに仕えるためには、これら一つ一つの実は何よりも必要なものである。神からの愛なしに、誰も隣人の最善を求めることはできない。御霊が導く喜びなしに、隣人の喜びを共に喜ぶことはできない。キリストが平安を与えて下さったので、私たちは全てのことにおいて安らぐことができるのである。・・・・・。
<結び>愛、喜び、平安(平和)、寛容、親切(慈愛)、善意、誠実(忠実)、柔和、自制。これらの実について、絶えず思いめぐらすこと、そして自己吟味することをパウロは教えている。そうすることによって、キリストにつく者となった自分を省みることできるからである。実際は、なお肉の行いに誘われる自分の弱さを思い知らされるのであるが・・・。
私たちは、繰り返し繰り返し、キリストと共に十字架で死んで、今新しい命に生かされていることを悟ることが大切である。古い自分に死に、新しい命に生きているのである。捨て去ったものに再び引かれることなく、御霊に導かれて、御霊の実を結ぶように造り変えられているのである。この世の生活がどんなに人と競い合うことを優先しようと、キリストにある者は互いに仕え合うこと、愛し合うことを喜びとする。キリストの教会こそ、御霊の実を結ぶ者が喜び集うところとして歩ませていただきたい。(25〜26節)


