礼拝説教要旨(2005.05 08)
互いに仕える愛 (ガラテヤ 5:2〜15)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わないようにしなさい。」(5:1)パウロは切々と説いていた。キリストを信じて罪を赦された者は、もはや自由とされていると。ところがガラテヤの人々は、行いに頼る教え、すなわち「割礼」を受けるよう勧める教えに惑わされ、福音の真理から離れる人がいたのである。
1、罪の束縛から解き放たれ自由とされたことは、律法が要求する行いからも解き放たれたことである。キリストを信じる者は神の前に自由に生きることが出来るのである。自由に生きる決断を聖霊が助け導いて下さるからである。けれども、なお地上にある限り、この決断が聖霊によるものなのか、それとも自分一人によるものなのか迷うことがある。ここに律法主義の落とし穴が突け入るのである。行いによる義か信仰による義か。割礼を受けるのか十字架のキリストを仰ぐか・・・。
律法が要求することを行うという道は、一見分かりやすい道である。それに対してキリストを信じる信仰に生きる道は、時に分かりにくい道である。聖霊に導かれて決断するのは自分であるため、本当にこれで良いのかと戸惑うのである。しかし、あくまでも大切なことはキリストが与えて下さった自由に生きることである。律法の行いに頼って割礼を受けるなら、それは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまうことになる。行いに頼るなら、律法の全てを行う他なく、それは全く不可能なことだからである。(2〜5節)
2、パウロが教えることとその反対者たちが教えることの違いは、救いに関する一切はキリストの十字架で成し遂げられているのか、それに加えて割礼を受ける必要があるとするかの違いであった。ガラテヤの教会では「割礼」を受けることに行いが集約されているが、教会の歴史は今日に至るまで様々な行いを要求して来たのも事実である。どんなに十字架が尊いと教えられても、なお、人間が関われる所がないものかと、惑わす教えは後を断たない。
パウロは「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」と言い切った。キリストの救いに与った者、すなわちキリスト者ークリスチャンーにとって、割礼を受ける受けないよりもっと大切なことがある、それは愛によって働く信仰があるかないかであると。あなたに信仰があるなら、その信仰は愛によって働いていますか、あなたがキリストにあって自由を与えられているなら、その自由をもって隣人への愛のわざを行っていますか、と問うのである。(6〜12節)
3、自由は、これを反対する者からは、放縦を許すもの、まかりならぬものを思われる。けれども本来の自由は律法の要求するところを完全に満たすものである。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」(13〜14節)キリストにある自由は、隣人への愛の実践において発揮されるものであって、神に愛され、キリストにあって生かされているなら、神に愛されたその愛をもって、互いに仕え合うためにこそ、自由が与えられているのである
パウロは他の手紙で、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」と言う。(コリント第ー9:19) 完全な自由を与えられた者として、愛をもって全ての人に仕えることが出来ると言うのである。キリストご自身がそのようになさり、そのように生きるようにと教えておられるから、そしてそのように出来るように共に歩んで下さるからである。聖霊が与えられているのはそのためである。(マタイ20:26〜28、22:36〜40)もし、隣人を愛することにおいてためらうなら、それは何を意味するのだろうか。パウロはやや極端のように警告を発している。(15節)
<結び>パウロの教えは、キリストの教会でこそ「愛をもって互いに仕えなさい」と命じている。あなたがたには、互いに仕える愛がありますかと問うている。私たちはその問にどのように答えることが出来るだろうか。神に愛されている愛を喜ぶことによって、隣人を愛する愛も豊かにされるのであるが、私たちもまた、キリストから離れ、恵みを見失うことがあるからである。
行いによって義とされ救いに与ろうとする道は、自己中心で自分の救いだけが大切とする道である。それに対して信仰によって義とされ救われる道は、隣人と共に救いに与ろうとする道である。たとえこの狭い道を行く人は少なくても、キリストにあって共に歩むことは真に尊いものである。教会がキリストの身体であるというのは、共にみ国への道を歩む群れという意味があるのではないだろうか。互いに仕える愛を、いよいよ豊かに注がれて、愛をもって互いに仕える教会として歩ませていただきたい!!主イエスご自身がそのことを望んでおられるのである。(ヨハネ13:34〜35)


