礼拝説教要旨(2005.04 17) 
キリストにある自由       (カラテヤ 4:21〜5:1)
 「もはや奴隷ではなく、子です。」使徒パウロが切々と説いた救いの恵みは、奴隷だった者が神の子とされたという大きなを身分の変化である。奴隷ではなく子ですと言うことによって、罪の束縛から解き放たれた自由を強調していた。この自由を説くため、なおも言葉を続けた。「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。」(21節〜)

1多くの人々が、信仰によって義と認められ、神の子とされた救いから逆戻りしようとしていた。ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守り行うなら、それによって救いを達成できるという教えに、ガラテヤの人々は心を傾けてしまった。パウロはそのように歩みたいと願う人々に向かって、「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください」と迫っている。律法の下にいたいと思いつつ、本当の意味で律法の言うことを聞いていますかと問うのである。
※「律法の言うこと」ととは、旧約聖書の言うことを指している。

 当時のクリスチャンは、異邦人であっても旧約聖書にはよく親しんでいたと考えられる。そのためにかえってユダヤ人のようになりたい、なろうとする落とし穴があったのかもしれない。パウロはその旧約聖書のアブラハムの二人の子、イシマエルとイサクに触れて、奴隷と子の違いを明らかにしようとした。女奴隷ハガルの子イシマエルと自由の女サラの子イサクの違いは、「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」という違いであると。一方はあくまでも血筋によるが、他方は神の約束が基になって生まれた。その違いは、シナイ山で結ばれた古い契約とキリストによって結ばれた新しい契約の違いにつながっているのである。(今のエルサレムと上にあるエルサレムの違いも)

2、パウロ自身、かつては肉によるアブラハムの子孫であることを誇りとして生きていたが、今やその誇りは全く無意味だったと悟った。そしてよくよく旧約聖書を読むと実に鮮やかに、「約束の子」について語られていると知った。奴隷ではなく、約束の子がサラから生まれたことを通して、キリストを信じて子とされる幸いを、聖書は予め告げていたと知って、目が開かれたのであった。そして、血筋にはよらない約束の子の幸いについては、他の個所でも告げられていると言う。人の力の及ばない神のみ業を聖書は告げているのである。
(26〜28節)

 「奴隷の子」と「約束の子」との違い、それは自由が有るか無いかである。「今のエルサレム」と「上にあるエルサレム」との違いも自由が有るか無いかである。今の地上のエルサレムは律法に縛られている神殿礼拝の中心地であり、それに対して上にある天のエルサレムは、自由とされたクリスチャンがやがて迎えられる所である。そして自由をめぐって両者は対立し、奴隷の子が約束の子に敵対するのは昔も今も変わっていない。けれども神は「約束の子」を守られるのである。そのことを知って、あなたがたは「自由」を与えられていることを喜びなさい、とパウロは励ましている。(29〜5章1節)

3、この一連の論述、説得は、とても分かりにくい。それは「このことには比喩があります」と言うことからも明かである。比喩で分かりやすくなる場合と、かえって分かりにくくなる場合があるからである。はっきりと読み取るべきこと、聞き分けるべきこと、それは「兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」との勧めである。

 イエス・キリストを信じた人は、キリストの十字架のみ業によって罪の赦しを与えられ、自由とされたのである。罪の奴隷であったのが解き放たれ、自由の身とされたのは、子とされたことに他ならないのである。もし律法を守ることを生き方の中心に置くなら、再び奴隷の身分に戻ることを選び取るのであり、必死になって律法を守る他はない。けれども、キリストにある自由を喜ぶなら、自由を得させてくださった神を喜び、神を愛し、愛に押し出されるようにして生きることが導かれるのである。私たちはどの生き方を選ぶのか。

<結び>罪を赦された真の自由人として生きること、これがガラテヤ人への手紙の大きな主題である。そして、この主題は全世界の全てのクリスチャンにとっての課題である。キリストは自由を得させるために十字架で肉を裂き、血を流された。その十字架の身代わりを空しいものにしてはならない。

 神は私たちを愛していてくださる。無限の愛をもって罪から解き放ち、自由を与えてくださった。それゆえクリスチャンは自由人として生かされているのである。神と人との前に正しく歩むことが期待されているが、それは律法を守ることや、行いを積むことによってではなく、神を愛するからこそ自ら自由に考え、決断し、行動することによってである。

 こう決められているからとか、このようにすべきだからというのではなく、神に愛されていることをいささかも疑わず、ためらうこともなく自由な人として生きること、それがキリストにあって自由とされた人の生き方である。パウロが、先に進んで「愛によって働く信仰だけが大事なのです」と言うのは、まさしく神を愛し、また人を愛して生きることこそ尊いと宣言しているのである。私たちはぜひそのように生きる者、キリストにある自由を与えられた人として歩ませたいただきたい。(5:6)