クリスマス礼拝説教要旨(2005.12.25)

              救い主キリストのしるし         (ルカ 2:1〜20)

 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。・・・」
マリヤはこのように歌ったが、現実の生活は、至って質素で、夫ヨセフとの生活は貧しいものだったようである。彼女の心からの喜びは、主のまなざしが自分のような者に注がれていることを喜ぶものに他ならなかった。

1、受胎告知から幼子の誕生までの間、マリヤとヨセフはどのような生活をしたのだろうか。最初の三ヶ月、マリヤがエリサベツと暮らしたのは、主のあわれみによることであった。妊娠初期の恐れと不安の中にあるマリヤに最善の助け手と場所が備えられていた。それ以後はヨセフとともに月の満ちるのを待ったが、胸を踊らせて喜び迎えるとは行かず、二人には住民登録のため、自分の町に向かう旅が強いられた。裕福ではなかった二人にとって、真に不安な日々であったであろう。その不安は現実となった。ベツレヘムで宿に泊まれず、一間さえも貸してもらえず、マリヤは月が満ちて、男の子を産み、幼子は布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられたのであった。(1〜7節)

 「飼葉おけのみどりご」、それはドラマやおとぎ話としてはほほえましく、夢があるとしても、現実にあるとしたら、何を物語るのだろうか。普通のことではない、常識では考えられないことが起こっていた。あるとしたら、よほどの貧しさの中で、止むを得ずそうするしかない仕方で、幼子は寝かせられたのであった。母マリヤの心の内はいかばかりか。また夫ヨセフはどんな思いでその場にいたのだろうか。複雑な思いを秘めながら、幼子の誕生の無事を何よりも喜び、安堵していたに違いない。二人は幼子を布にくるんで、飼葉おけに寝かしつけることが出来、その寝顔を見て、言い知れぬ喜びに浸ったことであろう。マリヤは母となったことを喜び、主に感謝をささげたに違いなかった。

2、この幼子の誕生の知らせは、み使いによって野原の羊飼いたちに届けられた。(8〜10節)「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(11〜12節)み使いは、「飼葉おけのみどりご」は救い主である、神が約束されたキリストであると告げた。高きにいます神が、最も低くなって、羊飼いたちの所にまで来られたというのである。世の人々が目を向けることのない羊飼いたちに、神は「あなたがたのために」と近づいておられた。救い主の誕生は、「この民全体のためのすばらしい喜び」でありつつ、その喜びは先ず羊飼いたちに知らされたのであった。(13〜14節)

 「飼葉おけのみどりご」を見つけるなら、「これが、あなたがたのためのしるしです」と告げられた。「飼葉おけ」が捜すときのしるし、また目印になるということより、「飼葉おけのみどりご」こそ、「主キリストです」とのしるしと言われている。貧しく、みすぼらしく、見栄えのしない飼葉おけに寝かせられた幼子を、キリストと気づく人は誰もいなかった。幼子は小さく、弱々しくもあり、強い者が口を塞ぐなら、たちまち命は失われてしまう存在である。誰もそのような小さな者に頼ろうとはしない。けれども「この方こそ主キリストです。」この方に出会う人こそが、救い主に出会うのである。神は強い者を退け、弱い者をこそ立ち上がらせようとなさるのである。(ルカ1:51〜53)

3、み使いは、珍しいこと、ただほほえましいことを告げたのではなかった。信ずべき方、頼るべき真の神について告げていた。羊飼いたちはそのメッセージを聞き逃さなかった。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」彼らは「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」彼らの喜びは大きかった。み使いによって告げられた通りであったので、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(15〜20節)羊飼いたちは、「主が私たちに知らせてくださた」ことを喜ぶ、砕かれた心の持ち主であった。この私に主は目を留めて下さったと、素直に喜んで、救い主にお会いしたのである。

 「飼葉おけのみどりご」は「救い主キリストのしるし」である。このしるしは、常識はずれ、型破りである。人が願い、期待することと正反対のしるしである。薄汚れた飼葉おけであったに違いない。けれども、「救い主」は、そこに寝かされるのをよしとされた。生まれたばかりの幼子が過ごす筈のない家畜小屋、そこに「救い主」は寝ておられた。この世で疎んじられた者、羊飼いたちが近づくことの出来る所に「救い主」はおられた。幼子の小ささ、また弱々しさには、つつましさや優しさ、本当の暖かさが溢れ、最も低くなって近づいて下さる救い主の愛が満ちている。「真の救い主」である「飼葉おけのみどりご」は、私たちがそこに近づくのを待っていて下さるのである。そんな筈がない!と言うかぎり、救い主から遠く離れていることになる。心を低くして進み出ること、近づくこと!!

<結び>救い主キリストが生まれた当時、ローマ帝国の強大な力の下で、人々は疎外され、虐げられ、一握りの者が富を得ていたと言われる。今日世界はますますそれに似た様相を見せている。「ローマによる平和」は「アメリカによる平和」に代わり、「住民登録」に右往左往する民は、「有事関連法」や「国民保護法」等によって、今や戦争に駆り立てられている私たちのようである。(※住民登録は徴税と徴兵のために欠かせないことであった。)国家や社会に役立つことで、人が認められ、賞賛されている背後で、おびただしい数の人々が切り捨てられていることを忘れてはならない。人間疎外が一層深刻になっているのが今日の社会である。

 こんな時代だからこそ、クリスマスの出来事を心に刻むのは大事である。私たちは何を喜びとするのか、また私たちの教会はどこに立っているのかが問われている。「飼葉おけに寝ておられるみどりご」にお会いし、この方を「救い主キリスト」と信じる信仰に生きることは、いつの時代、どこの国に住んでいても、変わることのない確かな生き方である。いと低くなられた救い主にお会いすること、この方に救いを見ることなくして、私たちの生き方は決して改まることはない。神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えて生きるため、「飼葉おけのみどりご」にお会いして、その愛に触れることが何よりの原動力となるのである。クリスマスの喜びを新にし、喜びの証人として歩み出させていただきたい。