礼拝説教要旨(2005.04 03)
「アバ、父」と呼ぶ (カラテヤ 4:1〜7)
主イエスが十字架で死なれたこと、三日目に死からよみがえられたこと、これが福音の中心であり、キリストの十字架と復活を信じる者は、その信仰によって義とされ、神の子とされる。それゆえ、キリストを信じて義とされ、子とされる恵みに何かをつけ加えてはならない、というのがパウロの強い思いであった。しかるにガラテヤの教会において、行いに頼る教えがはびこり、律法を守るのを強いる人々が力を得、混乱が生じていたのである。
1「神の子」とされる恵みは、「約束による相続人」とされること、しかし、その相続人の権利と幸いは、なかなか理解しにくいものである。例えば莫大な財産を相続するにしても、実際にそれを相続するまでは実感は湧かないものである。また相続人が子ども(未成年)の間は、すなわち成人するまではその権利さえ明かでなく、奴隷と何ら変わりないのも事実である。(1〜2節)
パウロが語ろうとしたのは、神のみ子キリストがこの世に生まれ、この地上を歩み、十字架で身代わりの死を遂げ、贖いを成し遂げられる以前は、ユダヤ人も異邦人も例外なく、みな「まだ小さかった時」を過ごしていたということである。それは未成年の時代で、受け継ぐべき財産の測り知れなさを全く理解できないでいたのである。そのために、本来大切でないことに心を奪われ、しかもそれこそが正しいと信じ込んで歩むのが当り前であった。(3節)
けれどもキリストが来られ、十字架と復活のみ業を成し遂げられたからには、全ての人が迷うことなく、確かに「神の子」とされる特権に与ることが明らかになった。律法の下に閉じ込められていたユダヤ人はもちろん、空しい神認識の内にさ迷っていた異邦人にも、このキリストにあって「神の子」とされる幸いが、分け隔てなく約束されることになったのである。(4〜5節)
2、「子とすること」あるいは「子とされること」は、キリストにある救いの大切な一面である。「もはや奴隷ではなく、子です」と言われ、「子ならば、神による相続人です」と言われていることによって、罪の赦しを与えられた者は罪の束縛から解き放たれた自由な人であること、そして神の莫大な富を受け継ぐのにふさわしい存在であることが宣言されている。その特権は自分でようやく手にしたのではなく、神がキリストにあって与えて下さるのである。
「奴隷」ではなく「子」であることの幸いは、私たちの思いを越えている。私たちは「奴隷」の惨めさを知らないだけでなく、「子」であることの幸いをなかなか捉え切れていない。神は私たちを未成年の子ではなく、成人した子として認めて下さるのである。一人の人格として、真に自由な人として生かして下さり、どのように生きるのか、父として見守って下さる。いちいち指図なさることはなく、しかし危うきことは遠ざけ、必要な試練はこれを見守り・・というようにして、私たちを導いて下さるのである。(7節)
肉の父は、時に子を差別することがある。聞き分けの良い子、悪い子、何かにつけて強弱や優劣等など、人間の親は子を外見によって判断してしまう愚かさを免れない。しかしそれでも子としての身分や立場は、この世でもとても堅固なものである。まして全き神の前に「子」として認められれ、受け入れられるということは、決して揺るがない真に幸いなこと、神が用意して下さる一切の良き物に与っている幸いに他ならないのである。
3、「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(6節)パウロはキリストを信じる者たちが、「父よ」と祈ることにふれ、神を「父」と呼ぶのは、御子イエス・キリストの霊が私たちの心に遣わされているからと断言する。主は十字架の上で、神に向かって「アバ」、すなわち「父」と呼ばれた。ご自分を「子」として神に親しく祈られた。御子を信じる者は、その同じ言葉で神に祈ることが許されるのである。
「アバ」とは、家庭内で子が父を親しく呼ぶ幼児語で、神に対する呼びかけとしては、通常はむしろ避けられていたと言われる。神には格調をもって近づくべきと言うのか・・・・。けれども主イエスはかえって、その幼児語をもって神に祈られ、弟子たちにもそのように祈ることを勧められた。それゆえ教えられて祈るにしろ、自然に口にするにしろ、「アバ、父」と祈れるのは、祈る者の心に「御子の御霊」が宿るからであり、まさしく特権である。
<結び>信仰によって義とされ救われるという救いの奥義は、キリストの十字架と復活によって、信じる者が神に向かって「アバ、父」と呼ぶことが許される、そんな幸いに入れられるということである。外見を取り繕う必要はなく、ありのままの姿で神に「アバ」と呼びかけるのを、神ご自身が良しとして下さるのである。普段着で神に近づいて良いということである。
パウロはローマ8:11〜17でもほとんど同じように語っている。「アバ、父」と呼べる幸い、「父よ」と祈れる恵み、それは測り知れない。大きな喜びである。御霊が私たちの心に遣わされ、宿っているから祈ることが出来るのである。主が十字架で罪の代価を払い、私たちを贖い、私たちを「神の子」として下さったからである。私たちが相続するは莫大な富は、今はまだ全てが明かではない。けれども、やがての日、必ず与えられると約束されている。キリストと共同の相続人として、どのように報われるかは心に秘め、日々「アバ、父」と呼ぶ祈りをささげて歩む者としていただきたい。


