礼拝説教要旨(2005.03.13)
キリストを着る (ガラテヤ 3:15〜29)
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにもはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(3:1)と、厳しく語りかけたパウロであったが、それは十字架のキリストこそ救い主であること、キリストを信じて義とされ救われることを、いささかも軽んじることのないようにとの思いからであった。律法の行いによってではなく、信仰によって義とされることはアブラハムに約束されていたことであり、その約束はキリストの十字架のみ業によって、より明らかにされたと言うのである。
1パウロは「兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。・・・」と、今度は少し穏やかに語り始めた。神はご自分が約束されたことを変えることはなさらないと。アブラハムに約束されて後、モーセの時代に律法が与えられるまで、およそ430年が経過していた。神は律法によって約束を無効にすることはなさらず、約束の真の成就の時に至るまで、違反を示すために律法をつけ加えられたのである。すなわち何が罪であるかを示すため・・・、それは全ての人を罪の下に閉じ込め、キリストにある信仰によって救われる道へと確かに導くためであった。(15〜22節)
この段落の論述は正直なところ難解である。(※ペテロ第ニ3:15〜16) しかし何としても伝えたいこと、それは神の約束は不変であること、キリストを信じる人を、その信仰によって義と認めることを、神は初めから決めておられたことである。ユダヤ人は長く律法の監督の下に置かれていたのは事実である。それは律法によって閉じ込められていたことに他ならなかった。けれども信仰によって解き放たれるため、キリストが来られるまでは必要な役割を果たしていたと、パウロは認めている。しかしキリストが来られたからには、もはやその律法の下にいることなく、信仰によって生きる幸いに招かれているというのである。(23〜25節)
2、信仰によって義と認められ、救われる幸い、それは「神の子」とされる幸いである。律法の下に閉じ込められているのは、「奴隷」の状態であったのに対して、信仰によって解き放たれるのは、「子」とされることである。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(29節)これは血筋や功績とは無関係に、ただ信仰によって受けることを許される幸い、恵みであり、贈り物である。
「神の子」であること、「相続人」であることについては、4章で更に語られているが、私たちは「神の子」とされる幸いを、よくよく心に留めているだろうか。「子とされる」ことに半信半疑であったり、罪を赦されて「子」として下さっているにも拘らず、自分で自分を責め、あげくは人を責め、キリストの十字架の死を空しくしていることがある。律法の行いに頼り、割礼に走った人々は、「神の子」とされていることに気づかず、気づいていても安心出来なかったということである。けれども、神はキリストを信じ、キリストにあって生きようとする者を、その信仰によって「神の子」としていて下さるのである。この幸いは計り知れない。信仰によってのみ悟り得る幸いである。(26節)
3、「信仰によって、義と認められて救われる」ことは、「信仰によって、神の子とされる」ことである。パウロは同じことをいろいろと言い替えている。2節では「御霊を受けた」と表現し、27節では、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」と言う。キリストを信じて洗礼(バプテスマ)を受けることは、初代教会において入信の礼典として行われていたが、それはキリストにつく者、キリストのもの(所有)となることのしるしであった。そのキリストと結び合わせられることを、パウロは「キリストをその身に着たのです」と言うのである。
当時、洗礼を受ける時に白い衣を着たことがその根拠とされているが、パウロが「キリストを着る」と表現したのは、キリストにつく者となることの霊的な意味を込めたものと考えられる。2章20節で「キリストが私のうちに生きておられる」と言ったことと通じる。クリスチャンは「キリストを着た人である」、すなわちキリストと親しく結びついたことによって、キリストのようになっている、いやキリストそのものでさえあると自覚しなさい、と言われている。それほどに罪の赦しは確かで、キリストにあって生きることは真の自由に生きることにであると励ましているのである。
<結び>教会に連なる人はみな、キリストにつく人、キリストを着た人である。「キリストにあって、一つ」とされている。一つ身体である教会に連なっているのである。「一人の人」とされていることでもある。(28節)キリストにあるなら、全ての人は、民族も社会的な地位も関係なく、また男子も女子もなく、全くの平等な存在として神に受け入れられるというのである。なぜなら、みなキリストを着ているからである。そのことに気づいているだろうか。認めているだろうか・・・。
大切なことは、キリストを着た一人一人として生きることであり、互いにキリストの姿を見出して生きることである。行いに頼り、自分を誇る生き方が頭をもたげるのは、キリストを脱ぎ捨て、生まれながらの自分が事を成そうとする時である。もし周りの人の姿にキリストを見出し、自らもキリストが歩まれたように生きることを追い求めるなら、そこにキリストにある自由と喜びに溢れた交わりが生まれるに違いない。私たちはキリストを着た者としての歩みが導かれ、その歩みが良き実を結ぶことを祈り求めたい。そして信仰によるアブラハムの子孫、約束の相続人としていただきたい。


