礼拝説教要旨(2005.03.06)
十字架のキリストを信じる (ガラテヤ 3:1〜14))
ガラテヤ人への手紙は、2章まで、主にパウロの使徒であることの弁明であった。神とキリストによって使徒とされたこと、信仰によって神の前に義と認められることを知ってキリストを信じたこと、キリストが自分の中に住んでおられ、そのキリストによって生かされていること等を、パウロは告白していた。3章からは、ガラテヤのクリスチャンたちへの具体的な語りかけ、心を込めた教えで、何とかして「福音の真理」に立ち返ってほしいと訴えている。
1「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにもはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」パウロはどの町でも十字架のキリストを宣べ伝えていた。プラカードを掲げるようはっきりと提示していたので、人々は罪の身代わりとなって死なれたキリストを信じ、神の愛に心動かされていたのである。にも拘らず、律法の行いを勧める教えに心を奪われてしまった人々に、もう一度初めの喜びを思い出すよう、パウロは問いかけている。(1節)
パウロが語る福音の中心は、キリストの十字架であり、キリストのよみがえりであった。人々はキリストが身代わりとなって死なれたことを信じ、死からよみがえられたことに大きな希望を見出していた。決して律法の行いを求められることはなかった。救いは神からの賜物として与えられ、大喜びし、反対する者の妨げにも怯むことなく前進していたのである。(2〜5節)
「御霊を受けたのは」とは「キリストにあって救われたのは」という意味で語られている。あるいは「義と認められたのは」という意味でもある。それは初代教会において、信じた者の上に聖霊が目に見える形で下ったことと関係している。(使徒10:44、11:15) ガラテヤのクリスチャンたちが救われたのは、「律法を行ったから」ではなく、「信仰をもって聞いたから」、すなわち十字架で死なれたキリストの福音を聞いて信じたからであった。十字架の出来事を聞いて信じる、その時、まさしく信じさせて下さる御霊の働きがあるのである。
2、「信仰」と「信心」を私たちは区別して考えているだろうか。「信仰」を何かに依り頼む心、「信仰心」「信心」と考えているかもしれない。そして「信仰に励む」とか「信心にこれ勤める」というように考える。それはユダヤ人が考えていたこととよく似ている。彼らは神に依り頼み、神の要求に熱心に応えようとする、その心(思い)に伴う行いが「信仰」であると考えたのであろう。しかし、神はアブラハムの時代から「信仰」とは「神を信じること」、「神の言葉を信じること」、それこそが肝心なこととしておられたのである。
多くのユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であるということで、神の祝福に与っていると自負していた。「神を信じて義と認められた」アブラハムのことは見落として、アブラハムの子孫であるユダヤ人は律法に忠実な神の民であり信仰に生きている・・・、自分たちは義と認められるはずと。しかし、アブラハムの生涯において、あくまでも「神を信じ、それが彼の義とみなされました」と言われている。(創世記15:6)アブラハムはそのことで「信仰の人アブラハム」と呼ばれるのである。聖書の教えは、一貫して「義人は信仰によって生きる」である。(6〜11節、ハバクク2:4)
3、それにしても人は「自己中心」を捨てることの出来ない、頑なな存在である。かつて律法に従っていた自分の姿を思い返すと、全くの一人よがりであったことが、パウロには分かり過ぎる程であった。神を愛し、神に熱心の余り、律法を完全に守れるものとして歩んでいた。けれどもそれは不可能なこと、有り得ないことと分かった時、救いは賜物として受け取るべきもの、神を信じ、神に感謝して自分の身を委ねて救われると納得したのである。
パウロにとってこの救いがはっきりとしたのは、十字架のキリストの出来事が分かった時であった。彼はナザレのイエスが十字架で死んだことは分かっていた。けれどもイエスがキリストであるとは信じられなかった。まして、死人のよみがえりは有り得ないと。ところが、よみがえりの主イエスが彼に現れて語って下さった時、イエスはキリスト、救い主と信じるように導かれた。キリストの十字架の死は罪人を救うための贖いの死、身代わりの死であったこと、それこそ、信仰による義、信仰による救いが罪人に及ぶために、神が備えて下さった救いの道とよくよく分かったのである。罪からの救いは「律法によって」ではなく、「信仰による」と。(12〜14節)
<結び>パウロはイエスの十字架を目撃はしていない。けれども十字架刑の惨たらしさは知っていた。それ故に神が御子を十字架の死に追いやる程に、自分を含めて罪人を愛して下さったこと、そこまでして信じる者を救おうと招いて下さっていることに感激したのである。だからこそ十字架のキリストを信じる信仰を宣べ伝えた。この十字架のキリストから目を離さないようにと。
私たちの生活も、このキリストの十字架とつながっているか、つながっていないか、二つに一つである。十字架の死によって贖われた者として生きているか、それとも救いの恵みを無にしたまま生き続けるか。あるいは折角救いに与っていながら、神に頼るよりは自分の力に頼ってしまうのか。「信仰によって生きる」のか、「律法によって生きる」のか、どこまでも二つに一つである。
私の今生きているのは、また今あるのは十字架のキリストによって救いを与えられ、神との正しい関係に入れられ、神の平安を与えられていることによると、信じ、証しすることが導かれるように! キリストの十字架を仰ぎ、神の愛を喜んで生きる者とさせていただきたい。キリストが十字架で死んで、よみがえられなかったなら、私たちは神を知ることも出来ず、なお罪の悲惨の中にいるのだから・・・。


