礼拝説教要旨(2005.02.27)
信仰によって生きる   (ガラテヤ 2:11〜21)
 パウロは、異邦人すなわち割礼を受けない者への使徒、ペテロは、ユダヤ人すなわち割礼を受けた者への使徒、という確認をして初代のキリスト教会は前進していた。中でもシリヤのアンテオケでは異邦人を中心とする教会が成長し、パウロとバルナバを伝道旅行に遣わしたり、時々エルサレムからユダヤ人のクリスチャンたちが送られてよい交わりがなされたり、その歩みは活発であった。ところが、ついに一大事件が起こったのである。

1丁度ペテロがアンテオケに来ていた時、エルサレムから数人が訪ねて来たのをきっかけに、異邦人とユダヤ人のよい交わりが壊れ、大きな溝が出来てしまった。(11〜14節)ペテロはすでに神は人を偏り見ることはなさらないと教えられ、そのように生きていたはずであった。(使徒 10:1〜11:18)アンテオケの教会の交わりの中でも異邦人と食事を共にしていたのである。ところがこの時、エルサレムから来たユダヤ人たちの手前、異邦人との食卓の交わりから身を引く、そんな行動を取ってしまったのであった。

 ペテロの行動は他のユダヤ人たちに影響し、バルナバまでもがその行動に引き込まれてしまったので、パウロは危機感を抱いて、はっきりペテロに抗議をしたのであった。キリストの教会にとって一大事であった。キリストを信じて罪を赦された者たちの交わりが、人の目を伺い、恐れ、心を偽って行動することをしたからである。キリスのみを恐れるのではなく、周りの人々が自分をどのように見ているだろうか、ということが最優先してしまったのである。キリストを仰ぐなら、キリストによって世界中の誰でもが救われ生かされること、キリストにあっては、ユダヤ人も異邦人も何等の差別も、区別さえもないことを教会は証しすべきなのである。

2、パウロは何故そんなにまでも危機感を募らせたのか、その時の状況を思いめぐらしながら、イエス・キリストによって救われることの尊さ、恵みにより、信仰によって救われ、義と認められることに込められた神のあわれみの大いなることを、心を込めて書き送った。(15〜17節)律法を守り、よい行いを積んでも、誰一人として神の前に義と認められる者はいないことは、自分を含めてユダヤ人も異邦人も分かったのではなかったのか。なぜなら、どんなに律法を守っても、それによっては自分の罪を知らされ、悟らされ、神の前に義とされることは有り得ないと分かってキリストを信じたはず、そう一緒に心に留めたのではなかったかと。

 「義と認められる」とは、神が人を無罪と宣告して下さることである。ユダヤ人の多くは、律法を守り行って「義と認められる」ことを求めていた。けれども、神は、キリストの十字架の死、身代わりの死を信じる者を、その信仰によって「義と認める」とされたのである。「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」のである。(16節)行いによらない、信仰による救い、ここに神のあわれみと愛が凝縮されている。誰一人差別されることなく救いに招かれているからである。パウロ自身が気づいた、神の救いのご計画、福音の真理の素晴らしさである。ペテロも、今日のクリスチャンも・・・。

3、パウロはかつての自分を忘れることはなかった。行いによって義と認められることを求めていた頃、自分を誇り、人と競い合うことが最大の関心事で、心は安まることはなかった。しかし今の自分は、その頃とは全く違っていることを思い返していた。キリストを信じて歩み始めた者が、一度捨てた律法を、今また頼りにすることなど決して有り得ないと。(18〜19節)
 彼はキリストと共に一度死んだことを実感していた。今生きている自分は神によって生かされている自分であること、そして自分が生きているのではなく、キリストが自分の中にあって生きておられると告白している。(20節)パウロにとっては、まさしく一度死んで、よみがえった命を生きていると、実感していたのである。彼の回心の経験はそのことを物語っている。

 律法に死に、神に生きる。罪に死に、義に生きる。律法の支配から解き放たれ、神の支配の中で生きることは、パウロのみならず全ての人にとって、救いそのものである。彼は今生きているのは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。・・・」と語っている。十字架で死なれたキリスト、そして死からよみがえられたキリストを信じて生きること、そのキリストを宣べ伝えて生きること、そのためにこそ生かされていると確信していたのである。(21節)全てのクリスチャンは、キリストの証人として生かされているということに他ならない。

4、「信仰によって生きる」という言葉を、私たちも当たり前のように使っている。信仰の大切さを理解し、信仰が固くされることをいつも願っている。けれども、パウロと同じように、「いま私が生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と言うほどに、十字架のキリストを仰いで生きているだろうか。その度合いが、実は行いに頼るか、信仰のみと考えるかに影響するようである。知らず知らずの内に、十字架のキリスト以外のものに心引かれていることはないか。自分を誇ったり、知らずして他の人と比べていたり・・・。

 確かに生きてはいても、如何に生きているか、また、意味のある生を送っているかはとても大事である。神にあって生きているか、キリストと共に生きているか・・・。他の動物と変わりない生き方なのか、それとも神に造られた人間として生きているかということである。

<結び>パウロが「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内にあって生きておられるのです」と言ったのは、自分の人生の中心は、もはや自分ではなくキリストである、と告白していることである。自己中心の縄目から解き放たれ、キリストにあって自由を与えられたと喜び叫んでもいるのである。その生き方はキリストが生きられたように、他の人の救いのため、他の人に喜んで仕える生き方となるのである。

 私たちもパウロと共に「信仰によって生きる」と言うなら、それはキリストを信じる信仰によって生きることであり、キリストを愛し、キリストに愛されている者として、神がキリストにおいて与えて下さった恵みをいささかも無にすることなく、その救いの恵みを証しする歩みが導かれるよう祈りたい。パウロに習い、そしてキリストに習って!