礼拝説教要旨(2005.02.13)
真の自由を守るために (ガラテヤ 2:1〜10)
激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしていたパウロ、彼は「自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」(1:14)と自分のことを証言していた。その彼の人生は、「恵みをもって召くださった方」(1:15)にお会いしてから、百八十度転換したのであった。ユダヤ人から激しい迫害を受ける身になっていた。教会の中にも反対する者がいた。しかし、いささかも迫害を恐れず、神に従う道を歩もうとしていたのである。
1パウロは自分の歩みを振り返りながら、神に聞き従うことを第一に歩んで来たことを思い出していた。彼の歩みには絶えず命の危険がつきまとっていた。ダマスコからエルサレムに上ったのは、夜中に城壁伝いにかごでつり降ろされての脱出の後のこと、エルサレムでも余り歓迎されないまま、命を狙われ、兄弟たちによってタルソへと送り出されていたのである。どこへ行くにも、主は自分に何をさせようとしておられるのか、心の目と耳を開いて主に聞き従っていたのである。(使徒9:23〜30)
そのパウロが、「それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました」(1節)と言う。その14年程の間、異邦人への使徒として、ひたすら恵みによる救いーイエスをキリストと信じる信仰による罪の赦しーを宣べ伝えていた。タルソの町で暫く過ごした後、バルナバの要請によってアンテオケの教会に働きの場が与えられたのである。その教会の成長はめざましく、しかも異邦人が中心ということで、パウロこそが必要とされていた。彼は自分の救いの経験を忘れることなく、十字架で死なれたイエス、そして死からよみがえられたイエスこそキリストであり、この方を信じて罪を赦されるという福音を証しし続けたのである。(使徒11:19〜26) そしてアンテオケ教会から遣わされて第一回の伝道旅行も成されていた。
(使徒13:1〜3)
2、エルサレム行きには、いつも危険がつきまとっていた。必要に迫られてのことでなければ、そこに出かけることはなく、「それは啓示によって上ったのです」と言われている。(※使徒11章29〜30節の救援物資を届けるためのエルサレム行きか、同15章2節のエルサレム会議のためのもの) 主が行くことを命じられたからというので、ためらわずに出かけ、問題とされることが必ずのように自分の語る福音に行き着くとしても、恵みの福音を明らかにしようとし、そのようにしたのである。(2節)
パウロが語る福音、それはキリストは十字架の身代わりの死によって、信じる者を罪の束縛から解き放って下さり、自由を与えて下さった、それが罪の赦しであり、恵みによる救いであるというもの。パウロに敵対する者たちが語る福音は、キリストを信じるだけでは不十分、ユダヤ人と同じように律法を守り、割礼を受けなければならないというものであった。彼らは絶えずパウロの行動を監視して、新しい信者には割礼を強いたのであるが、そうした動きには断固として対抗したと言う。(3節)福音がないがしろにされることのないように、またキリストが救いを与え、罪から解き放って下さった真の自由が損なわれることのないようにと、心を配っていたのである。(4節)
3、「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」(5節)パウロがこう言い切るのは、キリストにあって与えられる自由は、何人たりとも犯すことは出来ないと信じていたからである。教会の指導者であろうと、国を治める者であろうと、いかなる者も神がキリストにあって罪を赦して下さることに何かをつけ加えることは出来ないのである。なぜか。神はその人の心の内をご覧になるからである。罪の赦し、それは人の心を解き放つものであり、神に赦され、心が真に自由にされることなのである。(6節)
彼の確信はいささかも揺るがされず、割礼を受けた者たちへの働きはペテロに、そして割礼を受けない者ー異邦人ーへの働きはパウロに、と互いに福音宣教の分担を確認することが出来た。(7〜9節)これは初代教会において大切な確認となった。かなりの緊張感をもってのエルサレム行きであったが大きな収穫を得て帰ることになった。その時申し合わせ、心掛けたことは、真理に立とうとするあまり、目の前の貧しい人々の必要を見失わないようにとのことであった。(10節)教会にとって、立場の違いを認め合い、理解し合うことの大切さとともに、助けを必要とする人々を見過ごすことがあってはならないのである。(※ともすると、この過ちを犯し易い。)
<結び> パウロにとってやっかいだったことは、敵対者、また反対者は教会の外にいるだけではなく、教会の中にもいたことである。かつての自分と同じように迫害する者は教会の外の人々であるが、他方、福音の理解を曲げるのは教会の中にいて惑わす者、「にせ兄弟たち」(4節)であった。ここに問題の複雑さ、ややこしさがあった。どちらもキリストにあって神が与えて下さった救いを歪め、罪から解き放たれた自由を脅かすのである。しかし、この自由をいささかも失うことのないようにと、福音の真理を保とうとしたのであった。(「福音の真理」:恵みにより、信仰によって罪を赦され、救われる幸いとキリストにあって自由とされる幸いを指す。※2:14)
私たちもキリストにあって真の自由を与えられた者である。キリストを信じて罪を赦され、罪から解き放たれた。信じて救われたのである。恵みをもって救って下さった神の前に、与えられた自由を見失ったり、決して軽んじることのないように心したい。この自由を喜び、これを守ることに今一度、自分の信仰を問直してみることは有意義である。いささかも損なわれることなく、この自由に生きること、この信仰に生きることを選び取るべきである。
また外からこの自由を脅かすものに注意することを怠ってはならない。パウロの時代と違い、外からの迫害はほとんどない時代なので、私たちはついつい鈍感になっている。外から自由が脅かされるのは日本ばかりか、世界中どこででも共通の課題である。中国、北朝鮮しかり、アメリカもまた・・・。キリストを信じる者が、どの国にあっても心が縛られることのない真の自由を得て生きること、これこそが世にあって何者も恐れず、また何事も恐れずに生きる力の源である。パウロに習い、私たちも自由を得て生きることが出来るように、真の自由を守って生きることが出来るように祈りたい。


