礼拝説教要旨(2005.01.30)
恵みの内を歩み続けなさい (ガラテヤ 1:6〜10)
使徒パウロがガラテヤの諸教会に手紙を書き送ったとき、先ず「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安がありますように。」と祈っていた。(3節)教会は、神の恵みと平安によって満たされ、神の祝福によって力を与えられなければ、世にあって教会として立つことは出来ないからである。ところがガラテヤの諸教会は、その恵みからそれるという危機の中にあった。
1、「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださった方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」(6節)ガラテヤの諸教会で、パウロがその町を去った後、ほんのわずかの間に、パウロが教えたこと異なる教えが広まっていた。それはキリストの十字架によって罪の赦しが与えられると説く恵みの福音とは異なる教え、律法を守り行うこと、特に割礼を受けることを要求する教えであった。
キリストの福音は使徒の働き1:8で告げられた通り、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで・・」広められるようになり、もはやエルサレムだけに留まっていることはなかった。シリヤのアンテオケには異邦人を中心とする教会が建て上げられ、そこからパウロたちは伝道旅行へと遣わされていた。ユダヤ人以外の異邦人が次々とキリストと信じて、罪の赦しの福音すなわち恵みに生きる幸いへと招き入れられていた。
ところが、パウロの働きを快く思わない人々がユダヤ人クリスチャンの中にいたのである。彼らは、昔からユダヤ人が歩んできたように異邦人クリスチャンたちも歩むようにと要求し、人々の心を捕らえてしまった。折角、恵みによって救われ、大喜びしていながら、時間とともに律法を行うことに向かい、割礼を受け、それを誇らしげに思う人々が現れるようになっていたというのである。パウロの驚きと悲しみは大きかった。※「あきれ果てています。」(共同訳)「不思議でならない。」(口語訳)
2、パウロに敵対する人々は、彼が正当な使徒ではないと非難した。使徒職の条件を満たしていない(使徒1:21〜22)と。彼は自分で自分の党派を興したのであり、より安易な道を説いていると非難したのである。人の心は不思議なもの・・・、より高いもの、より優れた教えと言われるとそちらに引きつけられるのであった。人々はただ心引かれて迷うどころか、恵みの福音を見捨てて、他の福音に移って行く、それは心変わりして、他に乗り換えて行くかのごとくであり、事態は深刻であった。
それだけにパウロの言葉は激しく、反対者は「のろわれるべきです」とまで言う。「福音」は一つであり、もう一つ別に福音があろうはずなく、キリストの福音を曲げてはならない! 「福音」が福音であるのは、キリストの十字架のみ業、それが身代わりの死であったことによる。身代わりの死を尊い代価として支払い、これを信じる者の罪を赦し、罪の束縛から解き放って下さるのが罪からの救いである。人が自分では成し得ないことを神が成して下さり、神が人を救い、恵みの内を生かして下さるのである。人にはただ感謝と喜びが湧き溢れるのみ・・・。パウロはこの福音を決して曲げてはならないと考えていた。(7〜9節)
3、恵みの福音の理解がねじ曲がってしまうのはなぜなのだろうか。私たちクリスチャンが心に留めるべきことは、神がキリストによって私たちを恵みの内に招き入れて下さった事実である。救いに与ったのは神の愛とあわれみのゆえであり、赦しの恵みが与えられたからである。不完全さ、不十分さ、無力さ、愚かさ等々はいささかも改善されるないまま、先ず全く聖い神の前に全面降伏したことによって救われたのである。(参照:テモテ第ー1:13)
それなのに救われて恵みの内を歩みつつ、なお自分の弱さや愚かさに悩むとき、自分を責めてしまうのである。(神は私たちの弱さや愚かさを全てご存知であるにも拘らず・・)やがて焦りが生じ、ついには自分で何とかしようとして、次第に恵みから離れて行く。行き着くのは「ほかの福音」、すなわち自分の力で信仰を高めようとする、行いに頼る道である。大切なカギは、神の前に全面降伏した事実を決して忘れず、キリストが私のために十字架で死なれたこと、よみがえって私と共に歩んで下さることを感謝して生きることである。その感謝の心から全ての思いと行いが生まれているか、そのことをいつも自分に問いつつ生きることである。
<結び> パウロが使徒として歩み始めたとき、確かに周りの人々に相談することもなく、人から手ほどきされることもなかった。それで自分勝手に使徒職を振りかざしていると非難されたが、彼にとってはキリストの恵みに触れ、キリストが自分を遣わして下さったので、ただただキリストのしもべとして生きるのみであった。人を頼らず、人に媚びず、キリストのしもべであることがパウロの喜びであった。(10節)
パウロのガラテヤのクリスチャンたちに注いでいた思い、そして手紙を通して語っている願いは、「キリストの恵みの内を、いささかも離れずに歩み続けなさい」というものである。決して惑わされずに恵みの内を生きなさい・・と。私たちもその教えを今日しっかりと聞きたい。私たちも恵みの内に招き入れられているのである。
キリストによる罪の赦しは完全である。私たちはなお不完全であっても、だからこそキリストが十字架で罪の代価を支払って下さったのである。どんなに心に騒ぐことがあっても、すでに赦され、キリストにあって喜びと平安を得て歩むことが許されているのである。キリストは、私たちをも恵みによる赦しの福音を携え、これを証しする者として世に送り出していて下さることを信じ、感謝して恵みの内を歩み続ける者としていただきたい。(※ルカ 24:47)


