礼拝説教要旨(2005.01.16)
恵みと平安がありますように     (ガラテヤ 1:1〜5)
 2005年に入り、早3週目の主の日を迎えたが、私たちの教会はなお2004年度を3か月過ごすことになっている。エペソ 2:8を年度の主題聖句として掲げて歩んでいるが、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」とのみ言葉をよく心に刻むことが出来ているだろうか。また、「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と言われていることを心から感謝しているだろうか。そうした理解を増し加えていただくために、今朝からはガラテヤ人への手紙を読み進むこととする。

1、「ガラテヤ人への手紙」は、「ローマ人への手紙」とともに新約聖書の中でも福音の中心が語られている書物として特筆される。すなわち、「生まれながらの罪人は、神の律法を守ることによっては決して救われることは出来ず、キリストを信じる信仰によってのみ救われるのである」との福音がこの手紙の全編を貫いている。(2:16他)使徒パウロは、この真理こそは決して揺るがせてはならないとこの手紙を書き送ったのであった。

 「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ、ただ神の栄光のために」との宗教改革のスローガンがあるが、マルチン・ルターが1517年10月31日に「95箇条の堤題」を公にしたのは、ガラテヤ書の研究と結びついていた。律法を守ることによって人が義とされることのないこと、人が義とされるのは信仰によってであることが、この書に明言されていたからである。以後ルターだけでなく、カルヴァンら宗教改革指導者たちはみな、この書の学びを通して信仰の理解を深め、福音に生きる力をこの書から与えられて今日に至るのである。

2、パウロは、この手紙を「使徒となったパウロ、および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ」(1〜2節)と書き送った。その時、「使徒となった」ことを強調しつつ、「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」と丁寧に説明する。彼にとっては、全ては神が成さるみ業であり、「私が使徒となったのは、神に押し出されたことであり、キリストをよみがえらせた神による」と告げる。自分で始めたことではないと。

 手紙を書くことになった理由は、パウロの伝道によって生まれたガラテヤの諸教会が、パウロの一行が立ち去った後、短期間で「ほかの福音に移って」しまったからであった。(6節以下)パウロの使徒職を疑問視し、パウロより自分たちの教えこそと惑わす人々が力を得、多くの人々が律法を守って割礼を受ける教えに後戻りしたのであった。パウロは、キリストとキリストをよみがえらせた神こそが信ずべきお方であり、私には人間的な野心など無縁であると言いたかった。彼は他の使徒たちのようにイエスと共に生活したわけではなかった。初めはイエスの復活を信じられず、復活を宣べ伝えるなどとんでもないと考えていた。彼にとってよみがえりのキリストによることは人生の一大転換だったからである。

3、パウロの心中は驚きとともに悲しみにも似た痛みがあった。イエスをキリストと信じて共に喜んだのも束の間、その喜びからそんなにも簡単に離れられるとは・・・。惑わす者に対する憤りも激しかった。けれども彼は一緒にいた同労者たちと共に、「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(3節)と祈った。パウロの祈りは、いついかなる時も、「諸教会」の上に主からの「恵みと平安がありますように」との祝福の祈りである。恵みと平安の内に福音のもたらす祝福の全てが満ちているからである。
 「恵み」の一言に、愛、慈しみ、憐れみ、赦し等など、神が人に注いで下さる一切の善きものが込められている。また「平安」は、「恵み」に基づいてもたらされる神との平和や心の安らぎである。単なる一時的な安心とは違う、キリストを信じて罪赦された者に与えられるところの、神からの格別な祝福である。神はこの祝福を与えるためにキリストを世に遣わし、十字架の上で身代わりの死を遂げさせて下さった。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(4〜5節)キリストを信じる者の心の拠り所、それはキリストの十字架のみ業であり、キリストを信じる者に与えられる「恵みと平安」は生きる力である。また喜びの源である。

<結び> ガラテヤ書が書かれたのは第一世紀の半ば、AD49年のエルサレム会議の少し前かそのしばらく後と考えられている。主の十字架と復活の出来事から20年が経過した頃、福音の本質を巡って確認が必要であった。その本質については今日に至っても、繰り返し確認の必要が迫られている。教会の歩みは神とキリストによって始まっていたにも拘らず、人の手によって歪められたり、神からの恵みと平安ではなく、人からの教えと励ましを求める誘惑にさらされているからである。

 この手紙を読み進むに当たって、改めて福音そのものに触れること、福音によって生かされていることを心に刻みたい。道徳的に聖書の教えを聞くのではなく、主にあって恵みと平安に包まれた人生を生きるためである。キリストは私を救うためにご自分のいのちを捨てて下さったことをはっきりと信じ、心からの感謝に溢れて生きることが導かれるように。また、キリストにある者はもはや惑わされず、平安の内に日々の歩みが導かれることを証し出来るように。

 もし道徳的に教えを聞くなら、この世でなお罪を犯す自分自身の弱さにさいなまれ、やがてキリストのみ業の確かさを見失ってしまうに違いない。あるいは見失う前に、自分の知恵や力に頼る道に走り福音を歪めてしまうであろう。これは信じているようでいて、後から来る者を迷いの道に引き込む恐ろしさを含んでいる。けれども、あくまでも福音に聞き従うなら、魂は滅びより救われ、何よりも神に栄光を帰すことになる。これこそ神がキリストにおいて、私たちに求めておられることである。私たち一人一人の歩み、そして私たちの教会の歩みが主によって整えられ導かれることを願って、栄光を主に帰すことが出来るように。