礼拝説教要旨(2005.01.09)
恵みの御座に近づく         (ヘブル 4:14〜16)
元旦礼拝にて「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と励まされ、2日の主日礼拝では、主イエスの少年時代のお姿から「仕える者となる」ことを学んだ。主は「仕える者」として全生涯を生きておられた。私たちも主に習って生きるために、今朝は先週参照したヘブル書のみ言葉に耳を傾けたい。

1、この書はもともとは宛先のない手紙であるが、内容から、「ヘブル人」すなわちユダヤ人読者に宛てた手紙とされている。ユダヤ人として旧約の律法に忠実に歩んでいた人々でイエスをキリストと信じる者となった人々に、イエスを信じる信仰を全うするように、決して後戻りすることのないようにと励ます内容である。紀元60年代に入って、ローマ帝国内の迫害は激しくなり(ネロ帝の時代)、信仰から離れる者、ユダヤ教に後戻りする者たちが増えていたからである。(※ローマにいるユダヤ人キリスト者が読者と考えられてる。)

 信仰が揺らぐのを避けることは難しい。けれども何を信じているのか、その点を明確にするなら、動揺を小さくすることが出来る。そこでこの書は、イエスをしっかり見据えることを勧める。地上を歩まれたイエス、十字架で罪の贖いを成し遂げられたイエス、よみがえって神の右の座に着かれたイエスを確かに信じて歩み抜くようにと。時に厳しく警告する(4:11〜13、6:4〜8)。しかし、あくまでも共に歩み抜こうと励ますのである。

2、励ましは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)との言葉でクライマックスに達する。しかし、イエスを遠くに仰ぎ見るのではなく、近くにいて共に歩んで下さる方として信じること、そのことが大切と語るのである。(14〜15節 ※「もろもろの天を通られた」:地上でありとあらゆる霊との戦いを通られ、それを経て天に帰られたことを意味している。)

 共にいて下さる神を、主イエスにおいてはっきり見ること、それが肝心である。すなわち十字架で死なれたイエスは、偉大な大祭司として私たちの救いの道を完全に開いて下さった方、神と人との仲介者として完全な方である。私たち人間と同じようになって地上を歩まれたのは、私たちの弱さや愚かさを身をもって味わわれるためであった。罪の誘惑と戦い、これに打ち勝たれたことによって、弱さの中にいる者を思いやって下さるのである。そのような方、真に思いやることが出来、痛みや苦しみを分かって下さるのが私たちの救い主なのである。(ヘブル2:17〜18)

3、主イエスが私たちと同じように試みに会われたこと、しかし、試みに打ち負かされることなく勝利されたことのゆえに、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と招かれている。(16節)折にかなった助けを受けるためには、自ら進んで、恵みの御座に近づくことが必要である。ためらわず、「大胆に」に近づくことである。

 「大胆に」との言葉は、口語訳では「はばかることなく」と訳され、リビングバイブルは「躊躇せず、思いきって」と訳している。ためらわず、確信をもって振る舞うことを勧めている。翻って考えると、「あなたがたは恵みの御座に近づくのをためらっているではないか」と指摘されているのも事実である。自分から近づかないので、折にかなった助けが受けられないのである。「恵みの御座」とは、主が恵みとあわれみをもって私たちの前に臨んで下さる場所である。それは主の日の礼拝の場であり、週日に教会で共に祈るとき、また一人一人が静まって主のみ言葉を開いて祈るときである。そうした場所に「大胆に」近づくこと、ためらいなく進み出ること、それが折にかなった助けを受ける道である。

<結び> 主イエスに習って生きることが私たちの願いである。そのためには、折にかなった助けを受けることがカギであり、「恵みの御座に近づく」のを喜びとしているか、自分に問う必要がある。主の助けなしに一日たりとも、いや一歩たりとも前に進めないのが私たちの本当の姿だからである。(※この事実を認めることはとても大切と思う!)

 一年間に主の日は52日である。週毎に喜びをもって、また大胆に主の前に進み出ているだろうか。主の前に進み出て、主が用意して下さっている折にかなった助けを確かにいただける人は幸いである。もし私たちの心の内にためらいがあったとしても、そのことを理由に足を止めてはならない。主は私たちが近づくのを待っておられ、あわれみを注ぎ、恵みを用意し、助けの手を差し伸べようとしておられるからである。

 主の日ばかりでなく「恵みの御座」は絶えず備えられている。祈り会もまた「恵みの御座」である。一人一人が日々祈るとき、聖書を開いてみ心を探るとき、そこは「恵みの御座」である。私たちの全てを知り、私たちの弱さや愚かさ、痛みも苦しみも知っていて下さる主が、折にかなった助けを与えようと待っていて下さる「恵みの御座」である。そこに近づくのをためらわず、大いに力と助けをいただいて、確かな日々を歩む者としていただきたい。そのようにして主に習う者としていただこう。