礼拝説教要旨(2005.01.02)
仕える者となる (ルカ 2:39〜52)
幼子イエスの誕生に関する記述は、ルカ福音書では39〜40節にて一段落している。「・・・・幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。」幼子イエスの成長を神は見守り、豊かな恵みを注いでおられたと記されている。そして、その成長めざましい様子は、12歳の少年イエスの知恵に現れていたのであった。
1、当時のユダヤ人たちは、過越しの祭りにはエルサエムの宮に上る慣習があった。イエスの両親は毎年その慣習を守り、律法に従って歩んでいたが、イエスが12歳の時、両親は彼を連れてエルサレムへと向かった。それはユダヤ人男子が13歳で成人式を迎える備えのためであり、少年イエスにとって重要な意味を持つ都上り(巡礼)であった。(41〜42節)
過越しの祭りを迎えるには、両親は予め「過越し」の意味を子どもたちに教えるよう定められていた。(出エジプト12:21〜28、13:8、14〜16)恐らくエルサレムへ出発する前に、この年は特に念入りに備えをしていたと考えられる。13歳で成人式を迎えるため、律法をあらゆる点において落ち度なく守れると周りからも認められる必要があったからである。
そのように備えをしての都上りは少年イエスにとって、心ときめく経験だったようである。宮で教師たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしながら、時の過ぎるのを忘れてしまっていた。そのための巡礼であったが、そのまま三日が過ぎてしまうとは、誰も予想出来なかったのである。イエスの知恵と答とは、その場で聞いていた人々を驚かせたが、その知恵はもう成人として十分なもの、いやそれ以上のものとの驚嘆を人々に与えていたのである。(43〜47節)
2、イエスの知恵、律法に関しての知識や理解は、宮にいた教師たちと対等に渡り合えるほどであった。問答形式のやりとりは白熱して、次から次へと内容が深まったのであろう。ようやくイエスを見つけた両親であったが、驚きの余り、「父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです」と言うのが精一杯であった。(48節)
イエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」と問い返された。この時イエスご自身は、神を父とし、自分を神の子としてはっきり認識しておられたのである。エルサレムの神殿は神の宮、父の家との認識であり、自分の居場所はここにあるとの明解な意識のもとで教師たちと問答を繰り返していたのである。それはヨセフとマリヤの子というより、「神の子」としての自覚であった。
(49〜50節)
マリヤは、聖霊によって子を宿したことを決して忘れてはいなかったであろう。ヨセフもイエスが聖霊による子と覚えていたに違いない。けれども12歳にして、そこまではっきり自覚しているとは、全く思いもよらなかった。それゆえ「両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった」のである。けれどもイエスご自身は、「過越しの小羊」は自分であることを理解し、そのために父なる神から遣わされたことを悟っておられたと考えられるのである。
3、イエスの知恵は、かくも明確に「神の子」としての自覚に現れていたが、また神の時をわきまえるに当たっても、見事なまでに現れていた。「必ず自分の父の家にいる」べきと自分を理解しつつ、「いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた」からである。自ら進んで仕えられた、仕え続けられたのである。ここが自分の居るべき所と、そのまま宮に留まると主張するのでなく、進んでいっしょに帰って行かれたのであった。(51〜52節)
「両親に仕えられた」のは、その後「およそ三十歳」になるまでの長きに渡った。約18年という年月である。「神の子」であることを止めたわけではなく、しかし、そのことに固執することなく「ヨセフの子」、また「大工の息子」「大工」(マタイ13:55、マルコ6:3)として歩まれた。正真正銘の大工として一家を支えていたイエスの姿が思い浮かぶ。主イエスは全ての人が経験するのと同じように、人生の様々な事柄を味わわれたのである。(ヘブル2:17、18、4:15)
早くして世を去ったヨセフの代わりに家を守り、弟たちに家を託せるようになって公の伝道へと進まれたと考えられている。仕えるために世に来られた主は、公の生涯を始める前もやはり「仕える者」となって歩んでおられた。決して止むを得ずしてではなく、自ら進んでされたことであった。時が来るまで父なる神に任せておられたのである。
<結び> 主イエスは誕生において「仕える者の姿をとり」、生涯の大切な時期に「仕える」ことを自覚的に選び取り、18年に渡って「仕え続け」られた。やがて公の生涯に移られた後も、「仕える者」としての歩みは徹底しておられた。常に心騒ぐ者、痛む者、苦しむ者の側にいて慰めを与え、助けの手を差し伸べておられた。弟子たちと共に歩む時、仕えられる者としてではなく、「仕える者」として振る舞っておられた。弟子たちもまた「仕える者となる」ように教え、諭し、励ましておられたのである。そしてご自身は十字架の死に至るまで、「仕える者」の道を全うされたのであった。
(マタイ20:26〜28、ルカ22:26〜27、ピリピ2:6〜8)
イエスの誕生を喜び祝った私たち、そして主イエスを信じ、み足のみ跡を踏み行きたいと願っている私たちである。私たちも信仰によって神の子とされる幸いをはっきりと自覚するとともに、「仕える者となる」ことをこの年の始めに選び取って、それぞれの所に遣わされることをよしとしたい。
家庭や職場や地域にあって、本当の意味で「仕える者」こそ期待されている筈である。分かっていながら人は仕えられることを求め、勝ち誇ることを夢見ている。その愚かさの中に私たちもはまり込むことがある。しかし主イエスは自ら「仕える者」となり、イエスに従う者を「仕える者」として世に送り出して下さる。主イエスに習って私たちも「仕える者となる」なら、主は私たちを用いて必ず栄光を現して下さるのである。主のみ業に与らせていただこう!


