礼拝説教要旨(2004.12.19) ークリスマス礼拝ー
 地の上に平和 (ルカ 2:1〜21)

 マリヤへのみ使いの知らせが現実となり、ヨセフにも事の次第が明らかにされ、二人は神のみ手に守られ導かれて幼子の誕生の時を迎えることになった。ところが二人は、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行かねばならなかった。皇帝アウグストの勅令による住民登録を、それぞれの家系に従ってするためであった。(1〜5節)

1、当時、ローマ皇帝はその権力を確立して帝国内を平定し、「平和」をもたらしていた。しかしユダヤはローマの属国となり、人々はローマの支配の下で限られた自治だけを許される不自由を味わっていた。「人々はみな、登録のために、自分の町に向かって行った」が、強いられた旅をしていたのである。国は徴兵と徴税のために住民登録を求め、より強固な体制を確立しようし、そのために身重のマリヤもヨセフと共に旅をしなければならなかった。「平和」とはいえ、人々の心の内は果たしてどのようであったのだろうか。

 力と力がぶつかり合った後の「平和」は、人々の心を豊かにすることはなかった。二人がナザレに滞在する間に、マリヤは月が満ちて、男の子を産んだが、その子を布にくるんで飼葉おけに寝かせなければならなかった。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」二人の姿を目に留め、部屋を提供する人がいなかったということである。けれども神は、このようにして救い主を世に遣わすことをよしとしておられた。高きにいます方が低きに下りて来られ、最も卑しく貧しい者をも引き上げるため、飼葉おけのみどりごとなられたのである。
(6〜7節)

2、救い主の誕生の喜びの知らせは、み使いによって羊飼いたちに告げられた。彼らはその仕事がら、当時の社会からはみ出した者、住民登録とは無縁な者、それ程に疎外されていた、最も卑しく、貧しい者たちであった。み使いは「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と告げ、彼らに「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と知らせた。神の愛の眼差しは羊飼いたちに注がれていたのである。(8〜12節)

 み使いは「飼葉おけに寝ておられるみどりご」が救い主キリストと強調した。そのみどりごを見つけるなら、その方こそがキリストであると告げた。当時も今も、生まれたばかりの幼子を飼葉おけに寝かせることは、ほとんど有り得ない。けれども救い主は飼葉おけに寝かせられていた。卑しい者や貧しい者が、いや誰もが近づき得る所に救い主はおられたのである。そして母マリヤとヨセフが見守る内に、み使いといっしょに、天の軍勢が現れて、神を賛美していた。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13〜14節)

3、羊飼いたちは、救い主のお生まれを「主が私たちに知らせてくださったこの出来事」と喜んだ。それでベツレヘムに急いだ。彼らは「飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当て」、何もかもが、み使いの告げた通りであったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。幼子イエスの前にたたずんでいる間、彼らはどんなにか心安らいでいたことであろう。この方が救い主、この方の前に今自分がいる、この喜びは言葉には言い難い・・・・と。
(15〜20節)

 彼らの喜びが神への賛美となり、神をあがめ、栄光を神に帰すことにつながったのは、み使いの賛美の通り、救い主のもたらす「平和」が彼らの心を満たしていたからである。この世で忘れられ、認められず、羊の群れを見守るしかなかった彼らが救い主のもとに導かれ、この方のもとにぬかづく幸いを得たのである。救い主がもたらす「平和」、心に満ちる「平安」が羊飼いたちを喜びの賛美に導いていた。飼葉おけのみどりごこそ救い主、「イエス」と名づけられるお方だからである。(21節)

<結び> ローマがもたらした「平和」は力によるもの。そこでは誰かが痛み苦しんでいる。疎外され、取り残されている人がいるのである。救い主イエス・キリストがもたらす「平和」は神の愛によるもの。この世で痛み苦しむ者が慰めを得て、神に栄光を帰すこととなる。救い主に出会った者は神の前に罪の赦しを得て、痛みや悲しみの中でも心に安らぎをいただくからである。

 悲しい出来事、また恐ろしい事件が続く今日の日本の社会、そしてこの世界、「平和」を求めながら、為政者たちは力による解決ばかりを追求している。戦争によって「平和」をもたらすことは決して出来ない。争いは憎しみや恐怖を増すだけだからである。飼葉おけのみどりごの前にぬかづく者が真の「平和」に与り、「平和」の使者として送り出されるのである。

 私たちは確かに飼葉おけのみどりごを礼拝しているだろうか。この方が与えて下さる「平和」を喜んでいるだろうか。み使いの賛美の歌声が、私たち自身の上に響いているだろうか。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」とは、私たちがその「平和」に与っているかどうか、その「平和」を喜んでいるかどうかを問うている。神のみ子は飼葉おけの中に寝りたもう方、最も貧しい人、弱さや困難の中にある人々と共に歩んで下さる方として礼拝することが、私たちに求められている。

 救い主が与えて下さる「平和」を携えて生きることが出来るよう祈りたい。家庭にあって、地域にあって、職場や遣わされるどこにあっても、私たちが真の「平和」を生きるなら、その証しは用いられ祝福されるに違いないからである。(コロサイ3:12〜15 ヤコブ3:17〜18 マタイ5:9)