礼拝説教要旨(2004.03.07)   
                   約束のともしび          列王記第二 8:16〜29
  列王記第二8:16以下は、預言者エリシャの時代の南ユダ王国と北イスラエル王国について、まとめのように記されている個所・・・・。南はヨシャパテ、ヨラム、アハズヤと王が代わり、北はアハブの子ヨラムに代わっていたが、アハブの死後、北も南も近隣諸国、諸民の反攻に遭い、特にアラムの脅威にさらされ、王たちは心安まることなく過ごしていた。ところが、王も民も神を呼ぶことはしなかった。預言者たちが神に立ち返ることを勧めても、ヨシャパテ以外はますます背くばかりで、ヨシャパテの子ヨラムが王となると南王国もまた、北王国と並んでますます主に背く道を突き進んでしまった。

1、なぜそうなってしまったのか、聖書はその理由を記している。(18節) 「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。
  アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪を行った」
そもそもダビデによって統一された王国は、主の祝福と守りに支えられていたが、国の形が整い、近隣諸国との友好関係が深まるにつれて、異教の偶像礼拝との関わりも深まっていった。もともとのカナンの地の偶像との対決とともに、外からの働きかけに対抗するのは困難を極めていた。

 ダビデーソロモンーレハブアムとわずか3代で王国が分裂したとき、分裂した北イスラエル王国をまとめるため、ヤロブアムは金の子牛を拝ませる罪を国中に広めたのであった。(列王第一12:28以下) そして北王国はオムリ、アハブによって更に力をつけた時代に、政略結婚によりシドン人イゼベルを妻に迎えたとき、同時にバアル礼拝を国中に広め、「・・・・アハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」のである。(列王第一16:30以下)

 国が富み栄えるとき、目に見えない真の神以外のものに頼り、心を満たすものとして目に見える偶像礼拝に走る、という典型的な形をここに見ることができる。その罪が王家の交流を通じて北から南へと広まり、深まってしまった。(国に勢いのあるとき、陰りのあるときのそのどちらにおいても・・・・。)

2、南ユダ王国において、主に対する背きの罪が広がって行くのに、ヨラムとアハズヤの時代、その転落の速度は激しいものであった。時間的にはわずか10数年のことである。そしてその理由は、ヨラムの妻が「アハブの娘」であったことと、アハズヤの母アタルヤが「オムリの孫娘」、すなわち「アハブの娘」であったことと、聖書はことさらのように記している。

 アタルヤはアハズヤの死後、南王国を支配して罪に罪を重ねるのであるが、ヨラムに対しても、アハズヤに対しても統治に関与し、力を振るっていたのである。(歴代第二22:3) それほど存在感があり影響力があったと言えばその通りであるが、実際、南の王たちは北王国と友好を深めようと願いつつ、外からの脅威におびえ、目先の安心を懸命に求めていたと考えられる。アハズヤについて、「・・・・彼自身アハブ家の婿になっていたからである」とはっきり記されている。(27節)

 ・今、目の前の安心を得たい、・目の前の家族や友を喜ばせたい、・この世で富を確保したい等など、目に見えることに心が大きく支配されていたのであろう。その結果、目に見えない真の神、主の守りや導きを求めることは忘れ去られていた。(※この問題は私たちの問題でもある。)こうしてやがて、南王国も北王国とともに神の具体的な裁きに直面させられるのである。

3、歴史は、北がまずアッシリヤに滅ぼされ(BC723)、その後南はバビロンに滅ぼされる(BC586)ときを迎えるのであるが、南ユダ王国については、「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。」と記されている。(19節)

 この約束は主がダビデと結ばれた契約であり(サムエル第二7:11〜16)、主ご自身が必ず守ると明言された約束であった。それ故に、王の背きがあり、近隣の民の反攻や反撃など、国は揺れ動くばかりになっても、神は決してユダを見放すことはなさらないのである。周りの人々が、神はユダをお見捨てになられた!と思うほどに苦難の道を歩んでも、それでも主なる神ご自身の肝心な約束は変わらないのである。(列王第一15:4)ともしびは決して消さない!と、南ユダ王国が全く滅びてしまうことは望まれなかった。

 南ユダ王国について、どんなに王が背いても神ご自身の約束は変わらない!という事実は驚くほどである。9章以下、痛ましい裁きが次々と下るものの、主の約束のともしびは決して消えず、バビロン捕囚によってもなお消えることなく、やがてベツレヘムで幼子イエスの誕生、そしてゴルゴダの丘のイエスの十字架のみ業、三日目のよみがえり、天のみ国のみ座へと約束は果たされるのである。

 一方で人の悪、王の罪は全く救いがたいものである。しかし、それを凌ぐものとして神の確かな約束がある。神はご自身の真実さにかけて、ご自分の民を憐れみ、導き、助け、育み、祝福して下さるのである。

<結び> 私たちは「ダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えよう」と約束して下さった、その約束を信じてイエス・キリストを救い主と信じている。私たちの弱さや愚かさ、罪深さ、不信仰、背きによって左右されることのない約束を信じているのである。キリストを信じる信仰の確かさ、素晴らしさはここにこそある。約束のともしびはどんなことがあっても消えることがない!!

 けれども、私たちは注意して歩まなければならない。見えることに頼って、見えない肝心なことを見失うことのないように。この世での家族や友人など、他の人々との交わりは尊いものであるとしても、信仰を危うくするほどの関わり方は、自ら注意を払わなければならない。また人生の大事な選択や決断をどのようにするのか=結婚、就職、転職、進学等など=、その時々に一人一人に課題が迫ってくる。そのようなとき、真の神以外のものに頼る誘惑と真剣に立ち向かうことが求められる。聖書は人の心は脆く、たちまちの内に偶像礼拝に走ることを繰り返し示し、警告しているのである。

◎本当は脆く弱いにも拘らず、どこかで自分に頼り、人にも頼り、強がっているのではないだろうか。私たちが素直に弱さを認めるとき、そこに主の約束の確かさや導きと守りの尊さが見えてくるのではないだろうか。

◎主が約束して下さったともしびが今も確かに灯されていることを、一人一人の生涯の歩みで見いだせるなら真に幸いである。