礼拝説教要旨(2004.02.22)   
                   預言者の苦悩            列王記第二 8:1〜15
 預言者エリシャの働きは神が生きておられることを人々に証しし、神を恐れて生きるよう人々を導くことにあった。その点で彼の働きはめざましく、際だっていた。まさしく「神の人」と人々の目に映っていた。このエリシャの働きについて、こんなこともあった・・・・と8:1以下は記している。

1、時間的なつながりは、4:37に続くこと、そしてゲハジが病に冒される前のこと・・・・。シュネムの裕福な婦人の一家とはずっと親しい関わりが続いていた。エリシ自身も助けられながら、一家はいつもエリシャを通しての主の導きと守りに与っていた。

 その地方を飢饉が襲うこと、しかも7年におよぶことが主によってエリシャに知らされたとき、彼はこの婦人一家にその地方から逃れるようにと告げた。彼女はエリシャを神の人と認めていたので、神のことばと信じ、家族を伴ってペリシテの地に逃れた。そして7年が過ぎ、自分の家のある地に戻ってきたところ、家も畑も他の人のものとなっていて、一家は途方に暮れるのである。いったい誰が生活の保障をしてくれるのか・・・・? (1〜2節)

 家を離れるとき、誰かに託して行ったのにちがいない。けれども7年の歳月は長かった。返してもらうことができず困り果て、ようやく王に訴えでることになった。そして丁度同じ頃、なぜか王はゲハジを呼び、「エリシャが行ったすばらしいことを、残らずに聞かしてくれ。」と話を聞いていたのである。(3〜4節)

 エリシャのなした大きなこと、すばらしいことと言えば、それはもう死人を生き返らせたこととばかり、シュネムの女の息子を生き返らせたことを話していたその時、その話の当人たちが王の前に立つことになった。王は死から生き返った本人を目の前にして、心を動かされないわけにいかなかった。王は彼女に尋ねた上で、彼女の訴え通りするように命じ、生活の保障までも命じるのであった。(5〜6節)

2、この時の王はだれなのか。アハブの子ヨラムと考えられるが、エリシャが行ったすばらしいことを残らず聞きたい・・・・と願ったのは、何か心境の変化があったのだろうか。

 3:2で「彼は主の目の前に悪を行ったが、彼の父母ほどではなかった」と言われている、その一面が表れているのだろうか。エリシャを決して認めたくない、しかし全く否定することはできず、かえって気になって仕方がなかったのである。神の前に心をさらけ出すことはしたくないが、実際に起こっていることは認めないわけにいかず、詳しく知りたいとの思いは募るのである。
 ※「すばらしいこと」:大きなこと、

 エリシャが行ったすばらしいこととは、単に人の業ではなく、神の業であることを察していたのである。神ご自身についても何か知りたいと願ってもいたのかもしれない。そうした思いで話を聞いていたその時に、目の前にエリシャを通して幸いに与った婦人が現れ、エリシャが生き返らせた子どもを見たのである。王としてできる限りの最善の裁きを下すことが導かれたのである。ところがそれ以上、信仰に心が開かれたか否かは何も記されていない。エリシャにすれば、きっと心残りがあったに違いない、そのような出来事である。

3、そのエリシャがいっそう苦悩するときがあった。彼がダマスコ、アラムの首都に行ったときのことである。何のためにそこに行ったのか、何も記されていない。主が遣わされたのである。(※ヨナをニネベに遣わされたように)

 アラムの王は病気で、直るのかどうかと心を痛めていた。エリシャが来たと知って、王はハザエルを遣わし、「主のみこころを求めてくれ」と頼んだ。エリシャはこのハザエルに確かに主のみこころを告げるのであるが、そのみこころとは、王の死とハザエルが次の王となること、さらにはこのハザエルこそがイスラエルに害を加える者であるということまで含まれていた。(9〜13節)

 エリシャにとって、告げたくない内容であり、知りたくもなかったこと、決して起こってほしくないことを告げなければならなかった。それこそ心が張り裂けるばかりとなり、ハザエルをじっと見つめ、泣き出してしまったのである。(11節)

 ハザエルがアラムの王となることについては、エリヤによって主のご計画がすでに明らかにされていた。(列王第一19:15)エリシャはエリヤから知らされていたことを、今いっそう明らかにされるその場に主によって立たされていたのである。主のご計画、主のみこころと言っても、ハザエルも戸惑う中で、悲しく、残忍なことまで告げなければならなかったエリシャは、それこそ心穏やかではいられなかったはずである。主に従い通すことの重さや苦しさを味わっていたのである。結局ハザエルは王を殺し、代わって王の座に着いている。
(14〜15節)

<結び> 神の人エリシャの生涯において、とても辛く苦しい経験だったに違いない。珍しく好意をもって近づいたイスラエルの王であったが、必ずしも心を開いたわけでもないという現実、また遠いはずの人が好意をもって近づいたときに、良い知らせを告げることができず、自分自身も受け入れたくない神のご計画を告げなければならないという現実があった。そんな現実の中でエリシャは主に忠実に従い通そうとしていた。預言者の務めを果たしていたのである。(※ダマスコへは行きたくない・・・・、そんな気持ちではなかったか。また、ハザエルが王になるとは告げたくない、認めたくない・・・・と思っていたのではないか・・・・。)

 エリシャは、主が遣わすところに行き、主が明らかにされたことを信じ、主が語らせようとされたことを告げた。ここに人が生きて行く上で、全ての人に当てはまる普遍的な真理がある。主が命じておられるなら、どんな困難があったとしてもそこに行かねばならないことがあり、留まらねばならないことがある。またどうしても受け入れたくない現実があり、それを否定したいとしても、主がそれをよしとしておられるなら、受け入れ前進すべきときがあるのである。

 主の約束は、私たちがどこにいても「わたしは、あなたと共にいる。」である。エリシャは苦悩しつつ、主が共にいて下さる約束に励まされ、またその約束によって大きな力を得ていたのである。私たちもエリシャに習い、主の約束を信じて歩み続けたい。
(※ヨシュア1:5、1:9、マタイ28:20、ヨハネ16:33)