礼拝説教要旨(2004.02 01)   
主は生きておられる  (列王記第二 5:20〜27)  

  今朝の聖書個所は、エリシャに仕える若い者(しもべ)ゲハジに起こった悲しい出来事である。彼はエリシャのしもべとして仕えていた人物で、神がなさる大きなみ業を見て歩んでいたはずであった。ところが、心から神を恐れる信仰には至っていなかったということが明かになるのである。

1、ゲハジは、主によって病をいやされきよめられたナアマンが、エリシャに贈り物をしたことを一部始終見ていたようである。そしてエリシャがその贈り物を断り、受け取らなかったことが不本意であった。彼はナアマンが家の前に着いたときから、すでにその贈り物の豪華さ、高価さに心を奪われていたのであろう。それで主人が何も受け取ろとはしなかったことが、口惜しくてならなかったのである。何としてももらいたい!と。

 彼は「主は生きておられる。」と神に祈り、神がこのことをさせて下さるようにと願いながら、その実、事の善し悪しを考えることなく、神を勝手に呼びつナアマンの後を追ったのである。思い込むと善悪の区別がつかなくなる、そんな姿である。(20節)

 ナアマンはゲハジが駆けつけて来るのを見て、戦車から降り、丁寧に彼を迎えた。すでに主を信じて心を低くすることを学んでいたのである。エリシャにするのと変わることなく、ゲハジに対しても接している。(21節)

2、ゲハジはナアマンの丁寧さや率直さに付け入るかのように、「主人から遣わされました。たった今、客人が着いたので、彼らに銀1タラントと、晴れ着2着をやってください。」と告げた。彼は自分が欲しいとは決して言わず、私の主人がこう言っています、と強調したのである。(22節)

 しかも、一度断ったエリシャの気持ちも変わったわけではなく、お客が着いたので・・・・と、他の人を思いやってのことであると話を作っている。ナアマンの後を追いながら、どう言おうか考えたのだろうか。賢いのか悪賢いのか・・・・。ようするに全く疑うことをしなかったナアマンの善意に付け込んで、ゲハジは自分の欲を満たそうとしたのである。

 ナアマンは、それこそもはや何ら欲に縛られることなく、心が解き放たれていたからであろう、1タラントと言わず2タラントをしきりにすすめ、晴れ着も与え、二人のしもべに背負わせて運ばせるのであった。(23節) 全く疑うことをせず、ためらうこともなく与えているナアマンの姿は尊い。神の前に全く明かな良心をもって歩んでいる姿である。

 他方ゲハジは心にやましいところがあったのであろう。主人に知られないよう受け取った物を家の中にしまい込み、二人のしもべを帰らせ、何食わぬ顔でエリシャの前に立つのであった。心の中では、「うまくいった!誰にも気づかれていない!!」と、ほくそえんでいたに違いなかった。(24節)

3、この全てを神は見ておられた。主は、まさしく生きておられる。エリシャを通して、「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」と尋ねられた。エリシャ自身も始めからゲハジの行動に気づいていたのであろう。けれどもゲハジは誰にも知られていないはず・・・・とばかり、「しもべはどこへも行きませんでした。」と答えるのであった。(25節)

 「あなたはどこへ行って来たのか。」との問は、善悪を知る木から取って食べたアダムに対する神の問と共通している。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9) ゲハジにとっては、アダムに対すると同じように、正直に答えるチャンスが与えられていたのである。しかし彼は、「しもべはどこへも行きません。」と自分の心を偽り、真実を隠したのである。過ちを素直に認め、悔い改めて赦されるチャンスを自分から失っているのである。

 エリシャは全部知っていることを告げ、ゲハジに神の裁きを告げなければならなかった。主に仕え、そして、私に仕えるしもべとして今まで学んで来たのではなかったか。何をすべきか知っているはずではないか。それなのに自分の欲に誘われ、それに負け、自らを悔いることがないなら、ナアマンの病があなたのものとなる・・・・と宣告し、ゲハジはそのように病にかかってエリシャの前を去って行ったのである。(26〜27節)

<結び> 人が思うこと、行うことの一切は生けるまことの神の前にはあらわである。ゲハジは不用意に「主は生きておられる。」と言ったが、人の不信仰や無頓着などとは無関係に、神は生きておられるのである。それゆえ全ての人は、神、主の前に心を正し、真実に生きること、もし失敗をして過ちを犯したなら、心を低くし、悔い改めて赦される道こそ歩むべきなのである。

 ゲハジの問題は、エリシャの近くにいて、神を恐れる生き方を知り、それを十分身につけることが出来る幸いなところにいながら、欲にひかれ、欲に負けたことである。人間の欲望、富への執着がかくも恐ろしく大きい、と言えばそれまでであるが、主の名を呼びつつ、贈り物も得たいと振る舞っていることは痛ましく、悲しいことである。「主は生きておられる。」と言うなら、その主は全てを知っておられることを、生活の全てにおいて認めて生きることが大切となるのでる。

◎私たちはどうだろうか。全てを知っておられる神の前に立つとき、真心からの罪の悔い改めをもって立つ人は幸いである。決して自分を偽ることなく、正直に自分の罪を言い表して、罪の赦しに与る人こそ本当に幸いな人である。

◎神は必ず悔い改めのチャンスを与えていて下さる。裁きは悔い改めない者に臨むのであって、私たちは赦しを与えて下さる神の前に生きることが出来るのである。生きておられる神の前に正直であること、また率直であること、そして謙遜であることを生涯変わることなく学ばせていただきたい。
 ※ヨハネ第一 1:7〜10