預言者エリシャの生涯は様々な出来事に直面し、一つの事が解決するとまた次の事が起こるという繰り返しであった。しかし彼は揺るぎなく主を仰ぎ、主に祈って歩み続けていた。彼がそこにいることによって周りの人々は大きな助けを得、進むべき道が示される、そんな幸いを人々は得ていた。6:1以下も、エリシャはまさしく神を仰ぎ、神に祈る人であるとの出来事が記されている。
1、エリヤ、そしてエリシャが預言者の活動を続けていた時、共に労する預言者のともがらと言われる一団が各地に存在していた。彼らはギルガル、ベテル、エリコで共同生活をしながら訓練を受け、神に仕え、また周囲の人々に仕えていた。その集団が大きくなって、施設拡張、住居の増築の必要が生じたときのことであった。
彼らは、先ず材木の切り出しから始めて、住居を建てようとヨルダン川の川辺で木を切り倒していた。その作業の最中に、一人が斧の頭を水の中に落として大慌てしたのである。普段エリシャは、彼らとそのような作業を一緒にすることはなかたようであが、その日は特に請われて、「では、私も行こう。」と作業を共にしていたのである。(1〜4節)
大慌ての彼は、悲しげな叫び声を上げていた。裕福ではない預言者たちの集団に自前の斧はなく、他人からの借り物で作業をしていたわけで、代わりの斧を弁償するなど考えられないことであった。エリシャはこの悲痛な叫びを聞いて、彼に問い返した。そして彼が示す場所に一本の枝を投げ込み、その斧の頭を浮かばせ、彼に拾わせた。(5〜7節)
エリシャは、神の人、神に祈る人、神と共に歩む人として、慌てず、騒がず、成すべきことをしている。神がエリシャをそのときのために、遣わしておられたかのように! 危機のとき、落ち着いて行動できる人がいるかいないかの差はとても大きい。まして神に祈り、神の助けを呼ぶ人がいるかいないか・・・・。
2、次の出来事は、アラムとイスラエルが絶えず敵対している状況の下で起こっていた。イスラエルの王アハブの死後、激しい戦闘はなかったものの、アラム優位のまま小規模な争いを繰り返していた。「略奪隊」と記されているように、イスラエルはアラムの兵士たちの限定攻撃にさらされ、常に緊張を強いられていたのである。
そのようなとき、エリシャは一貫して、神の守りと助けがイスラエルに及ぶようにと行動していた。彼はイスラエルの王(たぶんヨラム)に進言し、イスラエルに危害が及ばないようにしたので、アラムの王にとっては、作戦がつつ抜けとなっていると、苛立つばかりであった。(8〜12節)
イスラエルの王は、神に対して決して忠実ではなかった。不信仰であり、不忠実、そして不遜でさえあった。けれども神はご自身の真実さのゆえにエリシャを用い、神の民イスラエルを守ろうとされ、アラムの王に、イスラエルにはまことの神がついていることを知らせようとなさったのである。神の人エリシャの存在は、イスラエルにとって大きな力、大きな助けとなっていた。
アラムの王は兵を送り、エリシャをなき者にしようとドタンの町を包囲した。その兵力の前にしもべは、「ああ、ご主人さま。どうしたらいいのでしょう。」とおびえてしまうほどであった。(13〜15節)
3、エリシャは決して恐れなかった。彼は神の守りの確かさを知っていた。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と明言した。彼は主に祈って、しもべにも神の守りの確かさを見せて下さい、見えるようにして下さいと願ったので、しもべは、エリシャを取り巻いているところの、火の馬と戦車が山に満ちているのを見させられたのであった。
(16〜17節)
神は超自然の守りをイスラエルとエリシャに与えておられた。それは通常人の目には見えなかったが、エリシャはその守りを信じていた。確信して歩んでいたわけである。確かな守りのゆえに、敵を恐れず、折々に神に祈り、神が成して下さる一つ一つの事に依り頼んで前進していたのである。
アラムが更に目の前に迫って来たとき、エリシャは神に祈り、アラム人の目を見えなくさせ、そのまま彼らを首都サマリヤに連れて行き、そこで目を開かせ、もてなしを受けさせ、その上で国に帰している。危害を加えることなく、客として扱った上で帰らせるという不思議である。(18〜23節)
まことの神がついている限り、恐れはないこと、また神ご自身は争いではなく、相い和することこそ望んでおられることを、イスラエルにもアラムにも示していたのである。その感化がアラムの人々にあったので、略奪隊の侵入は止んだのである。
<結び> エリシャについて、聖書は繰り返し「神の人」と言う。エリヤも同じように呼ばれている。(列王第二1:9) 他にも預言者がそう呼ばれ、(列王第一13:1、20:28) ダビデやモーセも「神の人」と呼ばれている。(歴代第二8:14、申命記33:1、ヨシュア記14:6) 新約聖書ではパウロがテモテに「神の人よ」と呼びかけている。(テモテ第一6:11、第二3:17)
「神の人」とは、神に仕える人、神に従う人、神を信じ、神のために生きる人などなど、いろいろな意味が込められ、神の代理人というような大きな意味も込められている。エリシャについて、列王第二4章以降、「神の人」との表記が目立つのは、神に仕える人として、また神に近い人としてのエリシャの働きが顕著だったからである。折にふれ神に祈り、危機に動じることなく神と共に歩んでいる彼の姿が、人々の目にしっかり焼き付いたのに違いなかった。
周りの人々がどんなに慌て、恐れ、おびえたとしても、彼は、神の守り、主なる神の臨在を信じていた。彼の目は神の守りの確かさをはっきりと見ていたのである。詩篇のことばの通りに神を信じ、神に祈っていたのである。
「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」 (詩篇56:4)
◎「神の人」とは、神に祈る人のこと。祈りをもって、常に神と共に歩む人、生きる人のことである。そのようなエリシャの存在は、彼の周りにいる人々にとって、どんなにか心強いものであった。
◎神は、私たちをもそのような「神の人」として、世に送り出していて下さるのではないだろうか。私たちは神に祈ることを教えられ、祈ることの幸いを知っている。私たちが何か出来るとか、力があるからではない。神に祈ることによって、神が働いて下さるのを待ち望むことが出来るのである。神を待ち望むことが出来るならそれで十分! 神の守りと導きは万全だからである。
◎どんなときにも神に祈る人、そのような意味での「神の人」としての歩みを、この週も導かれたい!!
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