礼拝説教要旨(2004.01 25)   
心を低くして
            列王記第二 5:1〜19

 列王記第二1章以下、預言者エリヤからエリシャにその働きが引き継がれていった頃の様子が記されていた。北イスラエル王国はアハブの子アハズヤとヨラムの時代であり、南ユダ王国はヨシャパテからヨラム、アハズヤの時代である。近隣の諸国との力関係はアハブの死後変化が起こり、モアブの反抗があり、王たちはなかなか心安まることのない日々を過ごしていた。
 そうした全ての時において、預言者は王と民に向かって、心を神に向け、神に信頼して争いを止めよ! 神にあってまことの平安を得よ!! とのメッセージを語り続けていた。

1、この5章はそのように緊迫していた情勢の中で、とても不思議な事が起こっていたことを告げている。私たちはついつい神の恵みや祝福は神の民イスラエルに注がれており、敵対している異邦の民は祝福の外にいると思い込んでいる。しかし、そうではない! 異邦の民も神の豊かな恵みにあずかることができ、祝福にあずかるのである。

 その恵みにあずかったのはアラムの王の将軍ナアマンであった。アラムはイスラエルの北に位置する国、絶えず南下しイスラエルを脅かし続け、アハブはアラムとの戦いで命を失っていた。その時のことか、それ以前のことか定かでないが、イスラエルからは捕虜を大勢連れ去っていたのである。ナアマンはそうした勝利の立役者であった。

 ナアマンはアラムで地位も名誉も得ていた。王からは絶大な信頼と尊敬を得て、勇士として立派に生きていた。ところが病により人知れず悩みと苦しみを背負い、苦悩する日々を送っていたのである。(1節)
 ※「らい病」:この名で知られている病とは全く別のもの。ナアマンは将軍        としての仕事に差し障りなく過ごしていたからである。
※聖書の「らい病」と「ハンセン病」を同一視することのないように注意が  必要である。

2、ナアマンが病で苦悩しているのを見て、彼の妻に仕えていたイスラエルの少女が、サマリヤにいる預言者、あの預言者エリシャのところに行かれたら、きっと直していただけるでしょう・・・・と勧めたのである。(2〜3節)

 彼女は女主人によく仕えていたのにちがいなかった。主人から信頼を得ていたので、さっそくナアマンにそのことが知らされた。彼はまた、何とか直りたいという願いが強かったのであろう。すぐにでもその預言者のところに行こうと心を決め、王に願い、アラムの王からイスラエルの王に手紙が届けられた。
 ※アラムとイスラエルの国交は比較的平穏な時期だったようである。そして  国と国との交渉のすじを通すことをしたのであろう。(4〜6節)

 実際には、手紙を受け取ったイスラエルの王(たぶんヨラム)は恐れた。出来もしないことをせよ!と言われて慌てふためいたのである。この王の狼狽ぶりを聞いてエリシャは動いた。神が働かれる時と。(7〜8節)

 「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、イスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」今こそ、まことの神がおられることを知らせる時!と、エリシャははっきりと自覚していたのである。

3、家の入口に立ったナアマンに、エリシャは使いをやって、言わせた。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすればあなたのからだが元どおりになってきよくなります。」(10節)

 ナアマンは当然のように怒って去ってしまった。使いをよこして、ヨルダン川で身を洗え!とは・・・・。本人が出てくるべき! 主の名で祈るなり、何かしてもよいのに・・・・と、怒り心頭であった。(11〜12節)

 エリシャの側では、魔術的な事ではないことを示すこと、神のことばに聞くことの肝心さを示すこと、ヨルダンに身を沈めることにより心を低くすることを学ばせることなど、意図があったのである。実際ナアマンは馬と戦車を持って来て、それでエリシャの家の前にいたのであり、力を誇示し、権威や威厳を見せようとしていたようである。それ故にエリシャの指示は、直ちには受け入れられなかったのである。

4、けれども神はそこに、ナアマンの気持ちを沈めるように進言するしもべを備えておられた。彼は、預言者の言う通りにヨルダン川で身を洗ってみてはどうですか・・・・と促すのであった。(13節)

 ナアマンに問われていたことは、エリシャのことばに聞き従うか否かであった。それは神のことばに聞き従うか否かであり、余りにも単純で易しいことをそのまま聞くか否かある。すなわち、心を低くして、恥も外聞も気にせずにそうするかどうかが問われていたのである。まさしく衣を脱ぎ捨てて、裸になって川に下りて行くことが肝心なことであった。(しばしば人は、難しいことならやってみよう・・・・とか、高価であるなら注ぎ込もう・・・・とするが。)

 彼は心を決めてヨルダン川に身を浸し、七たび身を洗った。するとからだは元どおりになって、幼子のからだのようにきよくなった。彼の心も洗われて幼子のようになり、神の前に全身がさらけ出されていたのである。彼はまことに幸いな経験をしていた。そのようにしてナアマンは生けるまことの神を心から信じる者となったのである。彼の喜びは大きかった。感謝を込めて贈り物をしようとした。また祭壇を築いて、主にのみ礼拝をささげようと決心をした。(14〜17節)

<結び> ナアマンの姿から今日私たちが学ぶこと、見習うべきことは、彼が信じて従うことにおいて明解であったこと、ためらわなかったことにある。神のみ業に与った時、この神を信じて歩み出している。

 信じて歩み出した後に、心配なこと、気になることをエリシャに告げているが、その心配を理由にしてまことの神に従うのをためらうことはしなかったのである。そしてエリシャからは「安心して行きなさい。」と見送られた。エリシャのことばには、心配事は神に委ね、お任せして行きなさい。その時その時、神があなたに知恵と力、そして導きをきっと与えてくださいます、との祈りが込められていたのである。(18〜19節)

◎神を信じ、神に従うのに肝心なのは、心を低くして神のことばに聞き従うことである。幼子のように、ためらいなくみことばに従い、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に進む人こそ幸いである。そして、常に心を低くして信仰の道を歩み続けること、それが、私たちにとって神が備えて下さる幸いである。