礼拝説教要旨(2004.01 11)




イエスを仰ぎ見て
ルカ 4:1〜13
ヨハネがヨルダン川で人々に悔い改めを迫り、バプテスマを授けてメシヤ到来に備えさせていたとき、メシヤであるイエスもまた、このヨハネからバプテスマを受けられ、いよいよご自身の働きの始まりを迎えていた。しかし、マタイ、マルコ、ルカの福音書はみなイエスの働きが具体的に始まる前に、荒野で悪魔の試み(誘惑)に会われたことを記している。メシヤを世に送り出す上での神からの訓練が備えられていたという一面と、他方、悪魔はメシヤを失格に追い込むため、あらゆる誘惑の手を尽くしたという一面のある出来事である。
1、イエスは洗礼(バプテスマ)を受けられた後、み霊に導かれて荒野に行かれた。父なる神に祈り、働きのために備えのときを過ごされたのである。40日間の断食を終え、空腹を覚えられたそのとき、第一の誘惑に会われた。(※断食の間中も悪魔の誘惑に会い、戦っておられたが・・・・。)「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」(3節)
悪魔のことばは、神に祈り、神に従う道を歩もうとするイエスに向かって、それはナンセンス、何の意味があるのか・・・・と、神への不信を抱かせようとするものであった。神の子として使命を果たそうとしているようだが、それならなぜ神の子としての力を使おうとしないのか。神は理不尽ではないか、今苦しくつらいときに、神の子としての力を使わせないなんて・・・・。悪魔は、神への不信感を抱かせ、それを膨らませようとしたのである。
しかし、イエスは惑わされることなく、聖書のことば(申命記 8:3)をもって答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と。空腹が満たされるかどうかより、神に従うこと、みことばへの信頼こそが自分にとっては大切である、肝心なのだ!と答えておられた。何があってもわたしは神を信じきって生きて行く!!と。
2、すると悪魔は第二の誘惑に出た。それは将来に向けての野心を抱かせるもであり、その野心を今すぐにでも手に入れたいとは思わないか・・・・とそそのかすものであった。(5〜6節)
メシヤは確かに王の王、主の主なる方。万物をその足の下に従える方である。そのメシヤの支配が今すぐに来ることを望んでみてはどうか、というのある。それは当時の人々がメシヤに期待することであり、少しでも早くその期待に答えてはどうか、という促しでもあったのである。
この種の誘惑は今日も後を絶たない。いずれ手にする成功を思い描くこと、夢を膨らませることはよいとしても、いたずらに野心を膨らませて、成功のためには手段を選ばずとなってしまう、そんなこの世の成功者が多いのである。
イエスは、「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」と答え、この誘惑を退けられた。(8節、申命記6:13)神以外のものに頼って成功することを求めてはならない。もし成功したとしても、その成功がその人自身に滅びをもたらすことを忘れてはならないのである。
3、第三の誘惑は、神を信じ、神に従っている信仰そのものを、今ここで確認してはどうかと迫るものであった。神のことばによって生きようとするイエスに向かって、もっと確かな信仰を得るため、みことばを確認することを提案するのである。(9〜11節)
そんなにみことばが頼りなら、確かめることによって、信仰はもっと強固になるんではないですか、と勧めているように聞こえる。約束を具体的に経験することによって・・・・とばかり。もっともらしく聞こえる。(※私の場合なら、勧めに従って、飛び降りてしまいそう・・・・。悪魔はみことばを使いながらも、自分の都合に合わせて神の守りを期待する、そんな使い方であることに注意が必要。)
しかしイエスはこの惑わしにも、みことばをもって答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」(12節、申命記6:16)と答え、神ご自身と神のことばは信ずべきであり、試みることはしないと明言されたのである。これから始まる公の生涯において、苦難や困難が待ち受けているとしても、神の守りを確かめながらではなく、神を信頼し、神が歩ませて下さる道を歩もうとする心が定まっていたのである。
信じていること、それ自体を確かめることは、何か大きな力になりそうと思えても、そうすることは悪魔のワナだったのでる。
<結び> 主イエスが会われた試練、誘惑は、イエスが神の子だからというので会われたものであった。そしてイエスは神の子としてそれに打ち勝たれた。けれども、神の子だから勝てたという仕方で勝利されたのではなかった。そうではなく、イエスを救い主と信じて神の子とされる、私たちも同じように勝利できる仕方で勝利しておられたのである。
◎書かれた聖書のことばを信じ、そのことばに聞き従うことを通して神に信頼すること、神への従順を貫くことによってである。
◎信じ抜く・・・・
◎従い通す・・・・
そうすることは、時に楽な道ではないことを覚えなければならない。先が見えず、困難な道こそが主の備えておられる道という視点が必要となる。楽な道、安易な道、それは誘惑の道、悪魔の惑わしなのかも知れない。
主イエスは生涯変わることなく、十字架への道を歩まれた。多くの誘惑に会われ、それらを退け、乗り越えて・・・・。そのイエスを仰ぎ見て歩める私たちは幸いである。誘惑に会われたイエスは、私たちを真に思いやって下さるお方である。神の子である方が人となり、私たちが神の子となる道を開いて下さっている。痛みや苦しみ、悩みや悲しみをご自身も受けられて、なおかつ打ち勝って私たちを励まし助けて下さるのでる。
◎このイエスから目を離さず、仰ぎ見て歩む者とならせていただきたい。
(ヘブル 2:18、4:15、12:2)