礼拝説教要旨(2004.01 04)   
満ち足りる心 
                     ルカ 3:1〜17

 新しい年の初め、元旦礼拝に続く礼拝・・・・、主のみ声をどのように聞くのか・・・・、主は何を語られるのか・・・・、思いを新たにさせられる礼拝である。(列王記の学びに戻る前に、なおクリスマスからのつながりでみ言葉を開きたい。そのようにして導かれたのが今朝の個所・・・・。2001年1月7日にも「ふさわしい実を結びなさい」という説教題で学んでいるが、もう一度!)

1、ルカ福音書は、皇帝アウグストの世に幼子イエスが生まれたことを記した後、今度は皇帝テベリオの世に「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」と記す。実はこれからの出来事こそが本題というのである。

 「神のことばが・・ヨハネに下った」とは、この時からヨハネの預言者としての働きが始まったことを告げる言葉である。神がヨハネをメシヤの先駆けとして世に送り出されたことが、いよいよ明確になり、本格化したことを告げている。力あるメシヤはもうすぐに来られる、それに備えて心せよ!との神からのメッセージが、ヨハネを通して語られるのである。

 この出来事がどれだけ大きなことであったかは、その時までに神のことばが途絶えて400年が流れていたことから明かである。アモス書8:11で告げられた「主のことばを聞くことのききん」は、BC597年のエルサレム陥落とそれに続くバビロン補囚、更にエズラ、ネヘミヤの時代のエルサレム帰還( BC400年中ば)の後、マラキ書を最後に預言者が遣わされることなく400年に渡って、神の民イスラエルを襲っていたのである。それだけに、いよいよメシヤ到来による光が差し込む時代が始まるのである。

2、光が差し込むこの時に、今こそ人の心の内が明らかにされること、あらわにされることに心して神の前に立ちなさいと、神は人々に迫っておられた。罪が赦されるために悔い改めよ!と。

 多くの人々が確かに神のことばを求めていた。人間らしく生きたいと願い、真実に求めていた。それ故にヨハネのメッセージに心動かされ、次々と悔い改めのバプテスマを受け、更に多くの人々が集まって来ていた。その人々に対して、ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と迫っていたのである。それは、ただバプテスマを受けることで安心することなく、真心から神の前に立ち、メシヤの前に進み出るように人々を整えるためであった。

 ヨハネの所に集まって来る人々は皆、それなりに自分を省みる人々だったのに違いなかった。悔い改めなど考えもせず、安逸をむさぼる人々がそれこそ多くいた時代である。彼らはヨハネの所には決して来ようとはしないのである。
 ※皇帝テベリオの時代、ローマの繁栄はいっそう確かとなっていた。しかし  ユダヤには総督が、地方には国主(領主)が立てられている状況とは、経  済的安定が広まり固まる反面、不公平や不平等が深まっている・・・・と  いう、そんな状況でもある。

3、ヨハネは自分の所に集まってくる人々、世の中の状況に心を痛め、また自分を省みて神の前に進み出ようとしている人々に向かって語りかけていた。そのような人々にこそ厳しく語り、悔い改めの実を求めていたのである。もちろん、悔い改めようとはしない人々への挑戦の言葉、断罪の言葉としても語っていた。けれども、実際には集まってきた人々に対して、より明確な、そしてより具体的な悔い改めこそ尊いと迫っていたのである。
 群衆には隣り人への愛の実戦を促し、取税人には直ちに不正を止めるように、そして兵士たちにはいたずらな強健の発動を止め、満ち足りることを学びなさいと教えている。

 神の前に進み出よう、進み出たい、自分の生き方を正したい・・・・と思っている人、願っている人こそ、一人一人自分の生き方を正しなさい!と命じられている。そして一番大事なことは満ち足りる心を持つこと、自ら足りることを知ること、その心があるかないかではないか・・・・と言うのである。
 (11節、13節、14節)

 神を愛し、隣り人を愛する生き方を身につける上で肝心なことは、神によって愛され、十分に養われている自分を先ず知ることである。その十分な養いを喜び感謝することによって、隣り人を愛し、喜んで隣り人に仕えることが導かれるのである。

<結び> 2001年の正月に学んだ時、やはり満ち足りる心を学んで、自己点検をさせられた。3年経って、果たしてどれだけむさぼりを捨てられたかどうかを問うてみて、私自身とても心許ない・・・・。

 世はますます「むさぼりの時代」に突き進んでいる。先行きの不安など何のその、欲望を満たしさえできれば・・・・とすさまじいばかりである。そしてどこかで、他の人のむさぼりに対してはとても敏感になっている。政治家や役人の不祥事に腹を立て、文句はいくらでも言いたい・・・・。

 けれども、大切なこと、それは私たち自身が神の前に正直であることである。みことばは教会に集う私たちこそが、いっそうつつましく満ち足りる心を持つようにと語りかけ、迫っている。神の前に出るとき、本当の意味でよしとされる者であるよう祈りつつ、この年も歩ませていただくこと、それが私たちの証しの道ではないだろうか。