主イエスの誕生から公生涯までの30年の間の出来事について、聖書はこの12才の時の記事以外、何も記していない。ほとんど何もない・・・・ということで、実際どんなことがあったのか・・・・と興味津々となる。しかし、聖書はこれが全て、これで十分とばかりこの都のぼりの出来事を伝えている。
1、少年イエスが12才になった時に、過越の祭りのためにエルサレムの宮に上ったこと、それは特別の意味のある出来事であった。
ユダヤ人の男子の成人式は13才、「バル・ミツバー」(戒めの子)と呼ばれ、その時から一人前と見なされるようになる。そして律法の義務を全て果たすように求められるようになる。つまり、律法を全て知って、その戒めを実行に移すように求められるわけで、その前年、12才までに、父親は子に必要な教育を施していなければならないことになっていた。
両親は毎年過越の祭りにエルサレムに行っていたが、12才になったイエスを連れて行ったのは、次の年に備えての特別な思いをもってのことであった。予習、予行も父の義務だったからである。(※宮もうでは、もともと過越、初穂、仮庵の年三回。後に過越のみでOKとなった。)宮では実際に教師たちから律法についての知識や知恵を問われ、それに答える問答形式の教えを受け、次の年までになお準備すべきことを教えられる・・・・、そんな経験となる。=カテキズム教育=
2、宮もうで=都のぼり=の果たすべきことを果たして帰路についた時、イエスが一行の中にいない・・・・ということで、両親は大慌てすることになった。都のぼりの巡礼は、実際には家族単位というより、町単位または村単位で群れをなしてしたという。子供を先頭にして、女たち、男たちという順に列を作って進み、男の子たちは列の前後を自由に駆け回って歩んでいたという・・・・。「イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。」のは当然のことであった。(44節)
両親はようやく捜し回ってみたものの見つからない!ので、とうとう捜しながらエルサレムまで引き返すことになり、三日後に、宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしているイエスを見つけた。その時のイエスの受け答え、その知恵と答えに人々は驚いていたのである。
心配して大慌てで捜し回ったマリヤとヨセフは、見つかった喜びより、心配し動揺した気持ちを抑えられずイエスを問いつめている。ところがその問に対してイエスは明確に答えられた。(49節)
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず父の家にいる
ことを、ご存知なかったのですか。」
3、少年イエスのこの答えは、この出来事の重大さを見事に言い表していた。イエスは父なる神と自分との関係を、この時はっきりと自覚し、告白していた。宮にいることは父のもとにいること、父の家にいることとはっきり答えたのである。(※「家」は補足) 神の子としての自覚、神を父と仰ぐ意識、自己理解、それは箴言が教える真理である。(箴言 1:7 「主を恐れることは知識のはじめである。」)
父ヨセフも母マリヤも、そこまでのことは全く考え及ばなかった。きっと特別の男の子としてというより、ごく普通の子として育てて来たのであろう。またイエスご自身普通に育って来られたのに違いなかった。従ってこれ程までの自己意識にはとても気づけなかったのである。
そして更に驚くべきことは、そこまでの自己意識にも拘らず、少年イエスは両親と一緒にナザレに帰って行き、両親に仕えられたということである。ご自分は神の家、宮に留まるべき者、そこに居るべき者との強烈な自覚を持たれたにも拘らず、その時は両親のもとに帰り、自ら進んで仕えられたのである。(「仕えられた」:ヒュポタッソメノス:自らをして仕えさせ、仕え続けた)
少年イエスははっきりと自らはメシヤ、キリストであるとの自覚を持たれたのである。けれどもそのメシヤの使命を果たす上で、なお自ら卑しくなる道を選び取っておられたわけである。(ピリピ2:6〜8) 父が定められた時が来るまで、徹底的に低くなることを学ばれたのである。この後18年・・・・。(※過越の祭の意味を十分に知り、よく学んだ上でのこと・・・・と考えると、主イエスの知恵とその賢さ、そして遜りに私たちが学ぶことは測り知れない。)
<結び> 父なる神と自分との関係を悟って、自ら果たすべき使命を自覚することは、私たちが生きる上でもとても大切なことである。・どう生きるか・・・・・何のために生きるのか・・・・ ・何をしたいのか・・・・ 等々、私たち自身が心によく思い巡らしつつ歩むことをしているだろうか。
少年イエスのように、若い日に(年若くして)造り主を知ることは、まことに尊いことである。その上で自分が何をしたいかを考えることができる人、それを知る人は本当に幸いである。
けれどもまた、したいことを今すぐできるかどうかは別問題ということも事実である。神の時があり、その時まで待つことを神は私たちに課しておられることがある。すなわち、私たちは、今いるところで最善をなすように、心を尽くして人に仕えるようにと教えられるのである。
◎これがイエスを信じる者にとって、習うべき生き方なのではないだろうか。父なる神との確かな関係を悟った上で、どこにあっても他の人に仕えることを喜んでなすこと、それが私たちにとっても大切である。自らをして喜んで、進んで仕える、仕え続ける・・・・。
・家庭にあって
・職場にあって
・地域社会にあって
・もちろん教会生活において・・・・
◎何をするにも全ての点で少年イエスの知恵と賢さを学ぶこと、その知恵と賢さに習う歩みが導かれるように祈りたい。
(コリント第二8:1以下、9:7〜8、ペテロ第一4:10〜11、5:2)
|