救い主誕生の知らせは、野原の羊飼いたちに先ず届けられた。彼らは、飼葉おけのみどりごを捜し当て、大喜びして神をあがめ、賛美しながら帰って行った。マリヤは一切のことを心に納め、思いを巡らしていた。神のみ業が、これから先どのように成し遂げられるのか・・・・と。彼女は、先に「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と心から告白していた。(ルカ1:38)
1、幼子の誕生の後、マリヤとヨセフは律法の定めに従って、幼子を主にささげるためにエルサレムに行き、宮でシメオンとアンナという敬けんな二人に出会った。この二人は幼子イエスをメシヤ、救い主と信じて拝したが、他の人々がイエスのもとに集まってきたという様子は、聖書には描かれていない。イエスの周りには静かな日々がやって来ていたのであろう。※メシヤの特別な使命は誕生より十字架にこそあった・・・・。
その静かな生活を揺り動かす出来事、それは東方の博士たちの訪問であった。(※東方:アッシリヤ、バビロン、ペルシャ方面。イスラエルの民がかつて補囚され連れて行かれた地方。) 博士たちは星を見て、ユダヤ人の王のお生まれを知ったので、その方を拝みに来たと、よりによって時のユダヤの王ヘロデに告げたのであった。※ヘロデはローマから権限を託されてユダヤを納めていた(BC40〜4)。エルサレムの神殿再建など政治的手腕は優れていたという。けれども疑い深く、王の地位を脅かす者を次々と抹殺して権力の維持を図ったという。身内さえも・・・・。
博士たちの登場、その訪問理由の告知によって、ヘロデ自身が恐れ惑い、エルサレム中が騒ぎ立ち、恐れ惑うことになった。博士たちは当たり前のように、正直に王の誕生を喜び祝おうとしただけであったが・・・・。
2、「王の誕生」を知ったヘロデは内心激しく動揺しつつも、その「王」とは「メシヤ=キリスト」のことと察知することができた。旧約聖書に預言された来るべき方である。そうであるなら今の内にまだ手を打てる・・・・と考え、民の祭司長や学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかを聞き出そうとした。出生地を特定できればというわけである。
学者たちは得意げに答えたのにちがいない。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。・・・・」(5〜6節、※ミカ5:2) ヘロデもまた、その答を博士たちに知らせ、余裕を見せながらより確かな事実関係を割り出そうとした。動揺は見せまい・・・・、自分が王なのだから・・・・と、ひたすら強がって見せていたのであろう。
こうして博士たちはベツレヘムに向かうことができた。すると再び星が彼らを導き、ついに幼子のところにたどり着いた。彼らは喜びに包まれて幼子を見、ひれ伏して拝み、宝の箱をあけて贈り物をささげた。(※黄金、乳香、没薬)博士たちは、幼子イエスをまことの王として拝したのである。ヘロデではなく、幼子イエスこそ王!として・・・・。この方にこそお仕えしたい、お仕えしますとの決意は、ヘロデの言いつけには従わなかったことに表された。彼らはヘロデのところには戻らず、別の道から帰って行った。主イエスにお会いし、この方を王、救い主と信じるとき、その人の生き方は新しいものとされる。今までのものとは別の歩みが導かれるのである。※クリスマスをそのような生き方の転換として迎え、祝うことは尊い!!
3、幼子イエス、救い主の誕生の出来事の一コマ一コマに目を留めるとき、父なる神の守りの確かさが特に印象深い。博士たちが去った後、ヘロデの恐れからの怒りは頂点に達している。けれども、危険が幼子に及ぶ前に、神はヨセフに「・・・・エジプトへ逃げなさい。・・・・」と告げておられた。(13節)
導きに従ったヨセフの行動によって、幼子イエスは全く安全にエジプトに逃れ、そのいのちは神によって守られ、豊かに育まれた。ベツレヘム近辺に住む二才以下の男の子が、ひとり残らず殺されるという痛ましい事件に発展し、多くの人々の悲しみは消すことができなかったが、救い主が後に十字架の上で身代わりの死を遂げるためには、万全の守りを与えておられたのである。
「神の守り」と言えば、母マリヤの胎に宿ったときから、幼子のいのちは、死の危険と背中合わせのようにしながら守られていたのである。妊娠中(初期、中期、後期)、出生時、乳幼児期、その時その時、実にありとあらゆる危険が人のいのちを脅かしている・・・・と言われる。内側からも外側からも・・・・。今日とは比べものにならない位に・・・・。
神の手の中で幼子のいのちは絶対的!と言えるほどに守られていたのである。救い主としての使命をもって世に送られていたわけであり、その使命を全うさせるためには、幼子イエスの生涯を神ご自身が守られたのである。
<結び> 幼子イエスのいのちが、かくも確かに守られていたことを知るとき、私たちもまた神に守られ、生かされていることを心に留めることができる。私たちのいのちも神に守られ、今生かされて生きている・・・・、全てのことを最善に導いてくださる神がおられると悟ることができる。(ローマ8:28)
私たちの場合、今自分は何をするのか、何のために生きているのか、よく分からない、はっきりしない、とジレンマに陥ることがある。イエスが救い主としてお生まれになったことの明確さに比べると、ますますはっきりしないと悩んでしまうことがある。けれども先ず、いのちを守られて今日まで来たと感謝することができる。様々な危険から守られ生かされているのである。一人一人はまことに尊いいのちとして役割を担わされてもいるのである。
私たちにとって大切なことは、幼子イエスのいのちを守られた神の守りが、私たち一人一人の上にも確かであり、神の助けの手が差し伸べられていると知って生きることである。神に信頼して、心安んじて生きるようにと神は招いていて下さるのである。
その上で、自分の果たすべき務め、また使命を見いだすなら、一層主なる神に信頼して歩むことができる。ある人は将来を見据えながら生きることになり、またある人は、今いるところで与えられた務めを果たして生きることに
なる。
神によって「生かされているいのち」を喜び、感謝をもって歩むことの確信を、このクリスマスに固くさせていただきたい。幼子イエスを拝した博士たちはそのような確信と喜びを抱いて、別の道から帰って行ったのにちがいない。
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