礼拝説教要旨(2003.12.14)
飼い葉おけのみどりご
(ルカ 2:1〜21)


 つい最近のニュースで、フランスとイギリスが国の威信にかけて開発した超音速旅客機コンコルドが「最終飛行」をしたことを知った。1976年からの27年の歴史を終えたという。(※音速:時速約1200キロの2倍、時速2400キロ)他方、日本ではつい先頃、リニアモーターカーの開発実験走行で時速518キロの新記録を達成したと告げられていた。

1、そんなことをあれこれ思いめぐらしていた時、先週FHの「飢餓対策ニュース」12月号の一面、神田英輔総主事の記事に目が留まった。「いつか散る花として、どう生きるか」というタイトルがついている。コンコルドの最終飛行に触れた後、次のように記されている。

 『・・・・「速さ」がもてはやされ「速さ」こそが、あたかも高度な文明を象徴するものであるような錯覚がはびこるなかで、フランスとイギリスは威信をかけてコンコルドの開発し、「力」と「富」とを誇示してきたかのように見えます。このたびの飛行廃止は、そのような「速さ」だけを求める時代の終わりを意味するものと言えるかもしれません。』

 その通り!そうだ!そうだ!と言いたい。ところが読み進んで次の段落を見ると、『にもかかわらず、日本ではますます「速さ」信仰がもてはやされているかのようです。・・・・』と言われていることに、鋭く心を探られた。『速さが象徴する経済効果というだけで全てを推し量ろうとする生き方をいつまで続けるつもりなのでしょうか。このような社会が長く続くはずがありません。・・・・』と、東海道新幹線が「ひかり」主体のダイヤからより速い「のぞみ」主体のダイヤに変わったことに注意を喚起している。

 私自身、実は「のぞみ」主体のダイヤを歓迎していたので、やっぱりまだまだ「速さ」を求め、それによって何かを得ようと貪っていると痛切に実感することとなった。少々恐ろしいくらい・・・・。

2、『世界のみんなが仲良く暮らせる社会を目指していこうではありませんか。・・・・お互い「ゆっくり」自分の生き様を点検してみようではありませんか。」と、人の人生は散っていく花のようという事実を認めませんか、と語られているこの記事に目が留まり、心に留まったのは、次の理由からであった。それは、主イエスがお生まれになった当時も、もしや同じような課題があったのに違いない・・・・と思えたからである。

 速さ、効率、経済効果、富、権力等々、これらを追い求めることに人は懸命になって歴史を刻んでいる。その度合いは時代が違っても、さほど差はないのかもしれない。マリヤとヨセフがガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへと上って行ったのは、ローマ皇帝アウグストの住民登録をせよとの命令によったのである。時の権力がその力を誇示するもので、その命令に人々は従うほかなかったという様子を見せている。(※徴税、徴兵のための住民登録)

 アウグストは確かに戦乱を治め、当時の世界に「ローマによる平和」をもたらしていた。しかし、それは力ある者たちに都合のよい平和であって、イスラエルの民、ユダヤ人たちにとっては決して快いものではなかった。民衆はひたすら耐えるだけ・・・・という側面を否定できなかった。=熱心党という独立運動、取税人という売国的存在、祭司たちは特権階級・・・・等々の問題山積み=

 人間の価値をはかるのに、国家、社会に役立つのか、権力にとって有益なのかということでのみはかるのが世の常である。そんな人間疎外が当時の世界を覆っていたのである。そしてそのような状況の下に、マリヤとヨセフは幼子の誕生を迎え、飼葉おけに幼子を寝かせたのであった。

3、神のみ子イエス・キリストは、ローマ帝国が目指す平和とは違う生き方を人々に提示するようにして、この世にお生まれになっていたのである。

 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである・・・・というのは、費用を持ち合わせなかったからなのだろうか。それとも宿は満員だったのだろうか。ようするに、当時二人の周りにいた人々のほとんどが、二人には目を留めなかったのである。身重になって臨月の近いマリヤに部屋を提供する人はいなかったのである。

 けれども神はこの二人と飼葉おけのみどりごに、しっかりと目を注いでおられた。そして神の目はさらに野原の羊飼いたちに注がれ、彼らに救い主の誕生が告げ知らされたのである。(10〜12節)羊飼いたちは当時の社会で疎まれた人々、世の中の数には入っていない人々であったが、そのような人々にこそ「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と告げられ、捜し当てるべきは、「飼葉おけのみどりご」であると知らされていた。

 「救い主」、「主」という尊称は、当時ローマ皇帝にも用いられていたが、そのような視点で救い主を尋ねてはならなかった。王宮に向かったのでは、正反対のところに行くことになる。「飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」とは、視点を全く変えなさいと言われていることである。力ある者を王を仰ぐことに慣れている者にはむずかしいこと・・・・。また、富を求め、華やかなところにひかれる者はためらうこと・・・・。最も卑しい場所に敢えて向かい、誰もが行こうとはしない場所を捜さなければ、飼葉おけのみどりごには行き着けないのである。

 羊飼いたちは、主が告げ知らせて下さったことを見て来ようと出かけ、飼葉おけのみどりごを捜し当てた。彼らは大きな喜びに包まれ、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

<結び> 私たちは果たして飼葉おけのみどりごにお会いして喜ぶ者だろうか。もうすでに、羊飼いと共に飼葉おけのみどりごにお会いしているだろうか。彼らと共に救い主にお会いして大喜びする者でありたい。救い主にお会いして、本当に生き方が変えられるようにと、心の底からそう願う!

 この世の王がもたらす平和はどうしても力によるものである。ある人には良いものであっても、他の多くの人がそれによって苦しむものとなることを避けられない。しかしまことの王、救い主キリストがもたらす平和は、虐げられた人々を心の底から解き放つもので、万人にもたらされるもの! そのような平和は飼葉おけのみどりごにお会いする者にもたらされ、いつどのような時代にあっても、その人はたましいの救いを得て、世界のすべての人と和らぐ生き方が導かれるのである。

 まことの平和こそ、
   今、この世にあって祈り求め、
      その平和の道を歩みたい!!!