礼拝説教要旨(2003.12.07)
罪から救うために
(マタイ 1:18〜25)


 12月、クリスマスの季節を迎えたが、今年はどのような思いでこの時を過ごせるのだろうか・・・・。
 クリスマスは喜びの出来事! しかし現実の世は何か余りにも重苦しいことばかりである。イラク戦争はますます泥沼化しそう・・・・。痛ましい事件が続発・・・・。政治に信頼を寄せることができず、年金問題など先行きの不安は増すばかり・・・・。※21世紀を迎えてから同じような思いが続いているが、そんな暗い世にこそ主イエスは来られ、まさしく光を照らしていて下さる。そのことを心に刻んでこのクリスマスの季節を過ごしたい。

1、「世界で初めのクリスマスは・・・・」と歌うさんび歌がある。それは、ユダヤのいなかのベツレヘムで、宿にも泊まれず家畜小屋で、マリヤとヨセフの二人だけが飼い葉桶のイエスさまを見守っていた、小さなクリスマスという。結婚そして出産は、当時の社会でも本来は喜ばしいこと、多くの人々によって祝われる出来事であったが、マリヤとヨセフにとっては大きな試練としてのしかかって、幼子イエスの誕生を迎えていた。

 聖霊によって身重になったことによって、マリヤもヨセフも事柄をどう理解して受けとめたらよいのか、大いに悩まされていた。いち早くマリヤは主への全幅の信頼に到達したものの、ヨセフはマリヤと同じようにはたどり着けないでいた。至極当然のこと・・・・。しかし、さんざん心を痛め、苦しみ抜いたヨセフに主がみ使いを送り、尊いご計画を示して下さったとき、彼も信じて、やがて幼子の誕生となったのである。

2、ヨセフが聞いたみ使いの言葉はまことに簡潔・・・・。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(21〜22節)

 ヨセフが一番心配していたマリヤの胎の命について、聖霊によることが明言された。それはマリヤ自身からも聞いていたはずのことであったが、信じようにも信じられないことだった。しかし、今このように告げられたことによって、ようやくであったが、はっきり受け入れることが可能となったのである。ヨセフ自身、何よりも神を恐れて生きていたからである。

 また、男の子の名を「イエス」とつけること、そして「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と告げれたことを聞いて、ヨセフの心は定まったのに違いなかった。神の民をその罪から救う方、イエス=主は救いたもう=の誕生が明らかにされたのであって、救う方、救い主の誕生をヨセフ自身何よりも喜んだのである。彼はその喜びと確信を、眠りからさめたとき、命じられたとおりにすることによって現していた。(24〜25節)

3、こうして世に来られたイエスは、30才を過ぎてからの公の生涯において、人々に「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」と教えられた。(マタイ4:17)また「神の前に罪をを悔い改めて救われるように!」と人々を救いに招く福音を語られた。

 主イエスの心は、いつも心痛める人々、悩み苦しむ人々に向けられたいた。この世で満足し、おごり高ぶる人々はことごとく主イエスに敵対するのに対して、心の内に罪を自覚し、自分の力では自分を清くすることはできず、神の前に立つことがでないと悟る人々は喜んで主イエスのもとに集まって来たのである。(マタイ4:23〜25)

 主は人々に教えて言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。・・・・」(マタイ5:3以下) また、はっきりと次のように言われた。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(9:13 ※ルカ5:23では「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」と言われている。) 更に、ルカ19:10で「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」と言い、ヨハネ10:11では、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言い切っておられる。

 主イエスはまさしく人々を罪から救うためにこの世に来られた。そのために人々を招き、悔い改めて神を信じるように教え続けて下さった。そしてご自分の命を十字架で捨て、信じる人々を救って下さるまことの救い主としてこの地上を歩まれたのである。

4、罪からの救い主として欠くことのできない要件、それは救い主に罪があってはならないことであった。罪なき者だけが罪ある者を裁くことも赦すこともできる。その意味で処女マリヤからのイエスの誕生には神の大きなみ手が働き、万全のこととして事が成っていたのである。

 そして、救いを喜ぶ者とは、自らの罪を知り救いの必要を覚えつつも、自分の無力を悟る者だけである。その者だけが罪を赦され救われることを喜ぶのである。

 ヨセフは多くの悶々とした日々の後、一晩の眠りの中、夢の中でのことであったが、神が救いを与えて下さることを知って一切が晴れた。もはや神に全てを任せて、救い主の母となるマリヤを守り、幼子の誕生を心待ちすることをよしとしたのである。

<結び> クリスマスの出来事にふれ、救い主の生涯とその教えにふれるとき、私たちは自らの罪を知ること、悟ることの大事さを思わされる。もし私たちが自分の罪を悟らず、自らの救いの必要を覚えることがなかったなら、幼子イエスの誕生は私たちと無関係となるからである。※実際にこの世のクリスマスはその事実を物語っているよう・・・・。

 認罪または罪の自覚ということはとても大切である。なぜなら、罪の自覚には個人差があり、自分の罪の大きさや罪深さを認めるのは、だれもが避けたいと思うことだからである。「自分は善良に生きている。少なくとも善良に生きようとしている。」と多くの人は言う。ところが神の前にそう言い切ってしまうとき、そこに罪があるとイエスは言うのである。(ヨハネ9:39〜41)

 神の絶対的な清さと正しさの前に、自らの罪に絶望する者だけが神の赦しの恵みに与ることができる。その意味で幼子のイエスに神の清さ、正しさ、そして赦しの恵みが凝縮されていることこそ見いだすべきなのである。

 この世の中を見渡して夢や希望を見いだすのは困難な時代となってしまった。しかし、だからこそ救い主のお生まれを喜ぶクリスマスを迎えよう!! 確かに救い主にお会いして、罪の赦しに与り、喜びと感謝をもって歩みたい。心にキリストにある平和をいただいて、私たちが平和の使者として用いられることを、今年はいっそう祈ってこのときを過ごすことができるように!!!