列王記第二4:1以下、エリシャの働きの特長的出来事、すなわちエリシャを通して神が働かれた出来事が記されていた。貧しさの中で苦悩する預言者のともがらの妻の問題に、そして豊かさの中にあっても経験するシュネムの婦人の悲しみにエリシャは関わり、神ご自身がすべての人の生に関わっておられることを明らかにしている。人は折りにふれ、真実にまた真剣に主を呼び、主に祈ることこそ肝心なことと教えられる。
1、4:38以下も、神はどんなときも、どんな状況にあっても人々の生活に関わって下さること、そして人の思いを越えた道を示して下さることを教えている。飢饉という天災のもとで苦しむ、預言者のともがらたちの間でことは起こっていた。(その当時、地が飢饉に見舞われたことについては、8:1以下に記されている。それは7年に及ぶもので、多くの人が苦しんだ・・・・。その同じ飢饉のときのことと考えられる。)
天災などによって実際に苦しむのは大抵貧しい人々・・・・というのが世の常である。そうした苦悩や苦痛はさっそく預言者たちの生活に及んでいた。食糧調達に苦労した彼らが、ようやく野生のうりをいっぱい取って調理したところ、その毒性のゆえに食べられないという危機に直面していたのである。
※そのうりは多量に食すると危険なものであった。苦味も・・。
このとき、エリシャは全く慌てることなく、「では麦粉を持って来なさい」と命じ、それをかまに投げ入れてみなに食べさせたところ、その毒性はすでになくなっていて、みな無事であった。毒性が中和されたわけで、人々は食べて満たされたのである。(麦粉というのは、麦を焼いた灰か、灰を汁か・・?)
2、もう一つの出来事は、人々がささげ物として持って来たわずかなパンと新穀で100人もの預言者たちが満ち足りたという出来事である。
人々は飢饉の折でも、神にささげる物として初穂のパンと新穀を持って来たのである。通常であればもっと多くがささげられ、エリシャとその周りにいる預言者たちにとって十分なものとなるはずであった。けれども今はとても足りるとは思えない量のささげ物だったのである。「これだけで、どうして百人もの人にわけられましょう。」(43節)
しかしエリシャは、「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」と言った。召使いが言われた通り配ると、100人もいた預言者たちはそれを食べ、しかも「それはあり余った。」
※この出来事、奇跡は、主イエスの五千人の給食に通じる・・・・。
困難に直面して、人は「こんなわずかなもので、一体何ができるのか・・・・」と沈み込むのに対して、神はそのわずかなものを用いてみ業を見事に成し遂げられる。十分にという以上、十二分に!!である。これが神のみ業! 神がなさることの確かさ、すばらしさである。
3、神は、どんな状況にあっても神の名を呼び、神に助けを呼び求める者に答えて下さる。もうどうすることもできないと考えるとき、絶望してしまうとき、そのようなときこそ、神を呼ぶなら神は答えて下さる。そのことを、エリシャはその働きを通して人々に明らかにしていたのである。神の守り、養いは必ずある! 常にある! 豊かである!! と。
ところが、「今日において、もはや同じように奇跡が起こるとは考えられない。だから信じられない。気休めのような信仰はいらない!!」と人は言う。しかし、現実に私たちにはどうすることもできないと考えるときにこそ、神に目を向けるように、神に向き、神を呼ぶようにと聖書は教えているのである。
貧しさの中で、せっかく集め料理したものが食べられない・・・・というのは、まことに残念で悲しく、悔しくもある。なぜ? どうして・・・・と。しかし神は毒を取り除いて、食べさせて下さった。
せっかくささげられた物がわずかで、みなの分には足りないというのも、まことに切なく悲しい。不足というのは人の心を惨めにさせる。しかし「それはあり余った」のであった。
◎神のみ業の大きさ、計り知れなさが人々の目に明かにされていたのである。
<結び> 私たちは、今生きているところで神のみ業に触れているだろうか。ぜひ触れさせていただくべきであり、必ず触れさせていただけるのである。
日々の生活において、現実に戸惑うこと、またことに当たって恐れに包まれることを誰もが経験する。そのようなとき、神にしっかり目を向け、心をむけること、祈ることが肝心である。他の人々と共にいるなら、そこに信仰に立つ一人がいるかいないか、それこそが大事である。真の神を信じる一人がそこにいるなら、神の守りと祝福は周りの人々にも必ず及ぶのである。あるときはうろたえたとしても、またあるときはエリシャのように心を据えて神に祈る人となるなら、その人は真に幸いである。
神、主が、私たちの教会の歩み、そして一人一人の日々の歩みにおいて、すべてを満たし、あり余るほどに豊かに祝し、支えて下さることを経験させていただきたい。霊的にも。物質的にも。
※参照:エレミヤ33:1〜2、ヨハネ14:27、ローマ8:31〜32、ピリピ4:12〜13
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