預言者エリシャが活躍した当時、北イスラエル王国は栄えていた。けれどもその頃、預言者たちは貧しかった・・・・という状況を前回学んだ。それに対して今日の個所は、同じ頃に裕福な人たちがいて、そのような人たちにも神は預言者エリシャを通して関わっておられたことを記している。
1、ある日、シュネムという町に住む裕福な婦人が、預言者として巡回していたエリシャを、食事に招いたことからこの一連の出来事は始まった。彼女はエリシャのことを「あの方は、きっと神の神聖な方に違いありません。」と夫に告げ、そしてエリシャのために専用の部屋を作って、自由に使えるようにと、毎回親切なもてなしをするようになった。
※旅人をもてなすこと(ホスピタリティー):それは旧約聖書、新約聖書を 通じてとても大切な行いとして教えられている。神ご自身をもてなすこと、 神に仕えることに通じることとして・・・・。
創世記18:3〜5、ヘブル13:2、ペテロ第ー4:9、ローマ12:13、マタイ25:35他。
彼女は極めて当然なこととして、エリシャを食事に招き、更に必要なもてなしを提供し、エリシャの働きがより確かになされるように協力する人となっていった。生活の余裕がそれを可能にしたのかもしれなかったが、余裕のあるなしにかかわらず、彼女は成すべき務めを喜んでしていたのでる。
エリシャは彼女の働きにどのように感謝し、報いたらよいのか考えていた。そして彼女に尋ねたのである。彼女は「私はしあわせです・・・・。」と答えた。
2、エリシャは彼女にただ感謝するというのではなく、預言者、すなわち神に仕える者に対してもてなしがなされていることについて、今度は自分の方から果たすべき何かがあるのでは・・・・と感じていたのであろう。彼女には何か求めがあるちがいない・・・・、神への祈りがあるはずだ・・・・と。お礼をしなければ、ということではなく、きっと何かがあるはずと感じていたのである。
裕福で何不自由なく暮らしていても、そして口で「幸せです」と言い切っていても、心が満たされないということがある。だれでも、いつでも心の底から「幸せです」と言えるかどうか問われるなら、答は微妙で、心の揺らぎは誰にでもあるもの・・・・。
エリシャはしもべゲハジから彼女には子どもがいないことを知らされ、そして夫婦はもう年をとっていることを聞きだした。それで彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」と告げるのであった。
彼女は「子どもが授かるように」とは願わなかった。かつては求めたものの、今はもう受け入れて、このことは神のみ手の内にあると信じていたのであろう。かなえられない祈りのゆえに、神を恨むなどということはなかった。それで幸せですと言うことができた。エリシャはそのような彼女の心、信仰の姿勢に心を動かされ、「この夫婦に子どもを与えて下さい」と神の祈り、その祈りはかなえられると確信して告げたのであった。彼女は大いに戸惑ったが、翌年、エリシャが告げた通り、男の子が生まれた。
3、この夫婦は大きな喜びの中で男の子を育てた。ところがやがて大きくなったとき、最愛の子が病気で死ぬ・・・・という悲しみに遭うことになった。農作業中の日射病、または熱中症か・・・・。喜びが大きかった分、悲しみは大きい。
このとき、彼女は迷うことなく、エリシャのもとに走った。その子をエリシャの部屋に寝かせ、エリシャしか解決はないとばかり、彼のもとに来て告げている。今の大きな悲しみ、それはエリシャ、あなたの責任です!!とばかり詰め寄った。エリシャ自身が子どものところに来るようにと懸命に頼んでいる。彼女は、神、主に求めていたのである。その求めの真剣さ、熱烈さは、「私は決してあなたを離しません。」という言葉に込められていた。(30節)
ゲハジが「子どもは目をさましません・・」と告げたので、エリシャは部屋に入って戸を閉め、ふたりだけになって、主に祈った。彼は何を、どのように祈ったのだろうか・・・・。まことに緊迫した状況である。真剣で必死の祈りをささげたのである。彼自身の信仰が問われていた。息子を亡くしたこの母親の悲しみを、今取り除いて下さい・・・・。主よ。あなたのみ名のために、あなたのみ業を成して下さい・・・・と。
→16節のエリシャには幾分かの余裕が感じられるが、33節では、かなり切羽詰 まっていたのではないか・・・・。
エリシャは懸命に祈り、祈りとともにできることをした。(34〜35節)人工呼吸のよう・・・・。但し、それで生き返らせようとしたのではない。主に祈り、主が答えて下さるのを待ったのである。そしてついに、主はその子を生き返らせ、母親に返して下さった。祈りは、この場合、死んだ子が生き返るという形で答えられたのであった。
<結び> この出来事、この奇跡はエリシャ自身にとって大変な経験だったと考えられる。神の人、預言者の働きは、人の悩みや苦しみと関わり、その解決のために用いられることであるが、ときには、一つの問題が解決するとまた次の問題が起こり、預言者自身が戸惑い、あわてることにもなるのである。預言者自身が「主よ。なぜですか? どうしてなのですか?」と問いつつ、歩まされるのである。
そうした中で、一人になって真剣に祈るとき、祈らされるときがあり、その祈りを通してエリシャ自身がいっそう主ご自身に近づくことになっていたのである。33節の「ふたりだけになって、主に祈った」とは、この場合たった一人で主に祈っているということである。もう一人は、すでに死んでしまった男の子である。神と格闘するような祈りか・・・・。(ヤコブの祈り:創世記32:24)
預言者エリシャは神に仕え、人々に仕えして歩んでいた。私たちも神に仕え、他の人々との関わりの中で、互いに仕え合うように生きており、また生かされている。共に祈ること、重荷を負い合うことでどれだけ励まされ、力を得ているか、それはきっと計り知れないものがある。そしてそのような歩みのほかに、他の人のためにとりなし、ときに一人で必死になって主に祈る、そのような歩みを続けるところで、主は私たちの信仰を豊かに育んで下さるのである。
◎「主に祈る」ことを繰り返し、積み重ね、それによって成長させていただくのである。私たち一人一人をも主は必ず用いて下さる。何事にも主に祈って、答をいただいて歩むとき、私たちも恐れなく歩み続ける者として整えていただけるのである。
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