国と国、民族と民族の利害の対立、それはいつの時代もなかなか解決しがたい課題である。どうしてなのか・・・・?
BC850年頃、北イスラエル王国はアハブ王の死後(853年)、近隣諸国からの反撃にあっていた。アハズヤはモアブの反抗におびえ、病の内に2年で世を去り、兄弟ヨラムが王となったが、モアブの反抗はいっそう増していた。しかし、ヨラムもまた、主に頼る道は選ばなかったのである。
1、このヨラムについては、その不信仰、悪行について、「彼の父母ほどではなかった」(2節)と言われている。確かに、父アハブが造った「バアルの石の柱は取り除いた」と記されているように、いくらかの改善はあった。しかし、金の子牛を拝ませるヤロブアムの罪を犯し続け、止めようとはしなかったのである。この罪はそもそも南ユダ王国に対抗する形で始まったもので、北王国の拠り所のようになっていたからであろう。
ところがそのように南王国と対立しながらも、国の利害損得となると南の王ヨシャパテに援軍を求めている。父アハブがやはりヨシャパテに助けを求めたのと事情がよく似ている。ヨシャパテは以前と同じように、この時も両国の関係改善のためを思ってか、快くヨラムの求めに応じた。彼は南北の統一を願っていたのかも知れなかった。
こうして二人の王はどのように戦いを進めるのか作戦を練った。そして南方のエドムをも仲間にして、死海の南側を回ってモアブの地に攻め入る道を進むことになった。「エドムの荒野の道を。」
2、「エドムの荒野の道」は文字通り「荒野の道」であった。距離も長く、とうとう7日間も回り道をすることになり、水が底をついてしまった。その時、ヨラムはたちまち恐れと不安に包まれてしまい、この困難は、主のせいだ!と不平を口にするのであった。「ああ、主が、この三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。」(10節)これまで、決して主に頼ろうとしなかったにも拘らず、文句だけは主にあびせる・・・・という、典型的な背く者の姿である。
他方そのような困難に直面して、ヨシャパテは改めて主のみ心を求めた。「ここには主のみこころを求めることのできる預言者はいないのですか。」(11節) 「ここには」とはイスラエルには・・・・という意味合いが含まれていて、ヨラムに向かって、「あなたの国には主の預言者はいないのですか」と尋ねていたのである。
王の家来のひとりがエリシャの名を告げた。彼らの間ではエリヤの後継者エリシャのことはよく知られていたのである。そして三人の王たちはエリシャのところに下って行き、み心を問うと、彼は「ヨシャパテのために・・・・」ということで、神からの言葉を告げてくれた。
そこに主を恐れるヨシャパテがいることで、主のみ旨が明らかにされている。主を恐れる一人の存在の尊さがそこにあった。ヨシャパテがヨラムのために立ち上がったことは必ずしも良いこととは言えない。先ず主に問うて出て行ったわけではなかったからである。その意味では少し遅れて主に問うているわけで、間違ったか・・・・?とためらいながらみ心を探ったのに違いなかった。それでも主はヨシャパテを見捨てることなく、彼のために働いてくださるのである。
3、イスラエルの王ヨラムは、荒野の困難と水不足に直面して恐れに包まれていた。しかしエリシャによる主のみ告げは、水不足の解消を含め「これは主の目には、小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。・・・・」というものであった。主の勝利、主による勝利が明言されていたのである。
主の言葉の通り、翌朝、地は水で満たされ、水の面を照らす太陽の光に惑わされたモアブは、いきなり攻め入ったもののイスラエルに打たれ、引き下がるしかなかった。
戦いはイスラエルの勝利であったが、イスラエルはこの後、結局は引き揚げるしかなかった。モアブの王は自分の子を犠牲に捧げることをして民の怒りを増幅させるなど、イスラエルに対する反抗心をいっそう増大させた。対立はますます激しくなって、イスラエルにとってこの遠征は何の成果をあげることなく、失敗に終わるのであった。(モアブの碑文では自分たちの勝利とし、イスラエルは敗北して逃げ去ったと記録されている。)
<結び> こうした出来事から私たちは何を学ぶことができるのだろうか。この一連の出来事も私たちにとってやはり難解である。その中で「これは主の目には小さなことだ。」との一言がどんな意味なのか最後に考えてみたい。
人はだれでも、目の前の困難にたちまち失望し、落胆してしまうことがしばしばある。困難であればあるほど勇気が湧く・・・・という人もいるが、普通は恐れや不安に取り込まれ易いもの・・・・。そしてその不安はやがて神への不満や文句となって行くのである。それまでは決して神に頼らなかった者にかぎって、神への不満は神を呪うところまで行き着いてしまうのである。
◎イスラエルは水がなくなった時、引き返すことは考えなかったのだろうか。モアブ制圧そのものを考え直すこと、戦いを止めることもできたのではないだろうか。それは必ずできたはずである。ところが突き進むことばかりを考えていたようである。そして、敗北、死を予測して恐れ、神を呪うのである。
主を恐れ、主に心を向けるヨシャパテがいたことによって、その時の状況を恐れなくてよい!と知らされている。神ご自身の目には、すでに道筋はついていること、神のみ力には不可能はないこと、神は常に神の側にある者を守られれること等、神を信じ、神に従う者は必ず守られるのである。人の目には大きく、越えられないと見える困難も、主の目には小さく、すでに解決済み! 神がご自分の民を守ることは、神にとって当然のことであり、それは易いこと、しかし完全なものなのである。
神の側に身を寄せる者を神は必ず守られると分かれば、私たちもまた、常に神に任せて安んじていられるのである。そのような意味で、主を信じ、主に従う一人の存在がまことに尊い! その一人がどこにいても、また何事が起こっても心騒がせることなく立っているなら、その周りにいる人々もまた安心を得、幸いを得ることができる。
主イエス・キリストを通して真の神を信じる私たちが、神の大きな手の中にあって、何事も恐れず、何事にもたじろぐことなく、力強くこの世にあって生きることを導かれたい!!!
「主は私の味方。私は恐れない。
人は、私に何ができよう。」(詩篇118:6)
「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエルは言え。
2 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、 人々が私に逆らって立ち上がったとき、 3 そのとき、彼らは私たちを生きたまま のみこんだであろう。 彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、 4 そのとき、大水は私たちを押し流し、 流れは私たちを越えて行ったであろう。 5 そのとき、荒れ狂う水は 私たちを越えて行ったであろう。」
6 ほむべきかな。主。 主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。 7 私たちは仕掛けられたわなから 鳥のように助け出された。 わなは破られ、私たちは助け出された。 8
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」
(詩篇 124:1〜8)
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