預言者エリヤが活躍したのは、主に北イスラエル王国であった。その北王国は、当時激しく神に背いていた。神は王と民をまことの神信仰に、そしてまことの神礼拝に導くために預言者たちを用いておられたのである。けれども実際には、民の不信仰は容易には改まらない・・・・という状況であった。預言者たちにとって、その働きはとても緊張が伴うものであり、自らの信仰も問われるそんな時代であった。
そうした中でエリシャはエリヤの後継者として立てられたのである。神はエリシャを世に送り出しておられた。そのエリシャの権威が民の前に明かとなる出来事がこの個所に記されている。
1、「預言者のともがら」と言われる集団が、ベテル、エリコ、ヨルダンにいたことは2章前半で明らかになっていた。私たちは、エリヤに導かれる預言者たちがいた・・・・というだけで、その町の人々の信仰もそれなりに実を結んでいたと思ってしまう。いや、そう思いたい・・・・。しかし、実際はどうだったのだろうか。
実際のところは、預言者たちがいても人々の不信仰は改まらず、偶像礼拝は一層盛んになり、かえって対決、対立は鮮明になっていたようである。だからこそ、そこに預言者たちがいることが大事!という状況だったのである。そしてエリコの町での奇跡は、当時の国の様子、町の様子に対する預言者エリシャの働きを象徴的に物語る出来事であった。
民はエリシャの所に来て、
「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
どうか私たちを助けて下さい・・・・と願った。確かにエリコは古い町で、人が住むには立派な由緒ある町、けれども生活する水には人も家畜も、農作物も困っているというのである。※「土地が流産する」
これは実際に水源に問題があったことを示すとともに、町中でいのちの源そのものにも、何か問題があることを暗示していたのである。霊的、信仰的に・・。
2、エリシャは人々の求めに答えて、「新しい皿に塩を盛って、私のところに持ってきなさい。」と命じた。「新しい皿」とは新鮮なもの、清いものをという意味があった。そして「塩」は、その浄化作用や保存、防腐作用があることで求められたのである。
エリシャはこれらを水の源に持って行き、塩を投げ込んで、主の言葉を告げた。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」(21節) エリシャは何か魔術的なことをしたのだろうか。あるいは、ただ象徴的にその行為をしただけだったのだろうか。
彼にとっては、「主はこう仰せられる」と告げた上で成したことが、その通り成った、ということが肝心なことであった。神ご自身がエリシャを通して働かれることが人々の目の前に明らかになり、また彼自身、神によって用いられる器として歩み始める、その一歩をはっきり自覚することになった。神は私と共にいて下さる、私を用いて確かに働いて下さったとの確信が増し加えられたのである。
その事実とともに、エリシャのこれからの働きが、民の中でのまことの神信仰の一新にあり、その信仰を清め、浄化することにあるということが暗示されていたのである。
3、続くベテルでの出来事もまた、エリシャの働きの重さ、尊さを示すものであった。ベテルはヤロブアムが金の子牛を置き、祭壇を築いてイスラエル中を偶像礼拝の罪に陥れた町、神の預言者とは激しく対立していた町である。そこにはエリシャの権威を認めるなど、そんなことはしたくない人々が多かったのである。
その町で子どもたちのからかいの言葉があびせられたのは、決して偶然ではなく、また無邪気ないたずらでもなかったのである。それは町中の敵意の表れのようなものだったのである。(※「小さい子どもたち」(23節):ナアル:若者、少年をさす。面白半分に騒ぎ立てる少年たちのことか・・・・)
エリシャが「はげ頭」だったかどうかは不明であるが、それをあざけりの言葉として使ったのである。(参照:イザヤ3:17、24) 明らかに預言者の権威に対するあざけりであって、エリシャは自分を遣わされた神、主に対するあざけりと受けとめたので、主の名によって彼らを呪った。彼は自分が辱められたからではなく、神が辱められたことを悲しみ、怒ったのである。そして、神ご自身が子どもたちに裁きを下された。
人々はこのことで神を恐れるとともに、エリシャにまことの神の権威と神の力をはっきり見ることになった。そしてエリシャ自身はいよいよ自分の責任の重さを悟るのである。一層神に忠実であること学ばせられていたのである。
<結び> 私たちはこのエリシャの姿から何を学ぶことができるのだろうか。彼はその後カルメル山に行き、そこからさらにサマリヤに帰ったと記されている、カルメル山はエリヤがバアルの預言者と対決した場所、サマリヤは北王国の首都、神に背を向けたイスラエルの王のいる町・・・・。エリシャの働きがまさしく神に背く民に神のメッセージを届けることにあり、そこにある困難のまっただ中に彼は身を置くことになる。そこには言葉では言い表せない緊張や恐れがあったに違いなかった。
彼がその働きに向かうことができたのは、神がおられることへの信頼があったからである。そして神ご自身は絶大な力で彼を守っておられた。エリシャは神から絶えず励ましをいただいていたのである。その事実を心に留めるなら、世に送り出されている私たちが、この世で今どう生きるか、時にたった一人でも忠実に神に従うことへの大きな励ましを受けることができる。
時にはまわりにいる人々が抱えている問題の解決のために、神からの知恵や力をいただいて、その解決のための働き手として用いられるかもしれない。そのためには自らが神に信頼して、神を仰いで歩んでいることが求められる。
また時には、信仰者ゆえのあざけりに遭うかもしれない。しかし、そのような時も主に依り頼んで立っているなら、主の助けは必ず与えられる。自分の怒りに任せてはならない・・・・。
み言葉の約束は、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9) と明白である。どこにあっても主なる神が共におられ、守って下さるゆえに、エリシャはサマリヤに住むことができたのである。
私たちも今この地上で、どこにあっても、何をするにも、神、主に守られているのである。そのことを知って、大きな励ましを得て日々歩みたい!!
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