預言者エリヤは、神によって度々北イスラエルの王アハブの前に遣わされていた。主は王を戒めるため、そして民を主のもとへと導き返すため預言者たちを用いておられた。
1、旧約聖書の預言者たちの活動について、なかなかその全貌は分からないが、「預言者のともがら」と言われる集団があったことが、この個所に記されている。これは預言者学校のようなもの・・・・、訓練所、集落・・・・。彼らは民の信仰と生活を導く尊い働きを担っていた。※職業的な預言者あり、また特定のことだけに遣わされる預言者あり・・・・。
そうした預言者たちの集団の中で、エリヤは指導的役割を担っていたと思われる。すでに後継者にはエリシャを・・・・と、主から導きを受けていたが、いよいよその時が近づいていた。彼は自分の務めの終わる時が近いのを悟り、各地の預言者たちの集団を巡るのであるが、同時にこの時、エリシャへの最後の訓練を課そうとしたようである。
ギルガルからベテルへ、ベテルからエリコへ、そしてエリコからヨルダンへと行き巡る時、エリヤがエリシャに告げた言葉は、エリシャに対するテストの意味があったのであろう。主が遣わされる地へ赴く私に、あなたはついて来るのか、それともあっさり離れてしまうのか・・・・と問うていた。(2、4、6節)
エリシャはそのテストに合格した。強い決意、意志を込めて、「私は決してあなたから離れません。」と答えている。その時語った「主は生きておられ、あなたのたましいもも生きています」という言葉は、誓いを述べる時の慣用句である。(参照:列王第一1:29、2:24) 主は見ておられ、全ては主の目にあらわである・・・・との告白である。彼は主に従うエリヤにどこまでもついて行く! 最後を必ず見届ける!!というのであった。
2、エリヤは行く先々で自分の最後を告げていたようである。だからベテルでもエリコでも、預言者のともがらと言われている人々が動揺し、エリシャに「知っているのか、分かっているのか」と問うのである。
恐らく、エリヤとエリシャの間では直接そのことが話されることのないまま、各地を巡っていた。そして行き巡りつつ、エリシャは自分が受け継ぐ使命の大きさを理解し、その理解を深めていたのである。(3節、5節)
こうして彼は、エリヤに従うことは主なる神ご自身に従うことに他ならないこと、そしてその事の重大さを悟るのである。悟れば悟るほど、また分かればわかるほど、今は迷わずエリヤに従って、その行く所はどこへでも、どこまでもついて行こうとするのである。だから周りの人はとやかく言わず、黙って、そっとしておいて欲しい・・・・と。
エリコからヨルダンへと進む二人を追って、預言者のともがらのうち50人はヨルダン川を見おろす所まで来ていた。そこで起こったことは、エリヤが外套を丸めて川の水を打つと、水が両側に分かれ、二人は乾いた土の上を渡って向こう岸に行きつくという奇跡であった。この奇跡は、ヨシュア時代のヨルダン渡渉や、モーセ時代の紅海渡渉を思い起こさせるものである。民を救って下さる神がおられること、必ず導いて下さる主がおられることを再認識、再確認させられるものであった。
3、神が民を救って下さること、イスラエルの民たちには導いて下さる神がおられることを心に刻んだところで、エリヤはエリシャに尋ねている。
「あなたの求めるところは何か?」と。
エリシャの答は、「あなたの霊の、二つの分け前が私のものとなりますように」であった。エリシャはこの問、このテストにも合格した、と言うことができる。「二つの分け前」とは、申命記21:17にある長子が受けるべき分のこと。どんな事情があっても長子は二倍の分を受け取れるという権利のことである。
エリシャは自分が後継者であるとしたら、エリヤの信仰、そしてエリヤの預言者としての霊的な資質を、しっかりと確実に受け継ぎたいと心から願ったのである。二つの分け前、二倍の分とは、決してより多く貪欲に願ったということではなく、長子が受けられる分を余すところなく受けたいとする、求めの熱烈さ、真剣さを意味しているのである。
エリヤが答えたことは、それはエリヤが与えることではなく、あなた自身が神に向いているかどうかにかかっている、という意味であった。神によって取り去られるエリヤをエリシャが見るかどうか、それはエリシャが神に向いているかどうかなのである。神とエリシャとの問題であって、私はどうのこうの言えない・・・・と。(10節)
エリシャは、エリヤが奇跡的に天に引き上げられるのを見ることを許された。(11〜12節)その時、神はエリシャにエリヤの後継者としてご自身の力を付与されたので、エリシャは再びヨルダン川を渡って帰って行った。神を呼び、神の力の現れを経験して・・・・。(13〜14節)
<結び> こうして時代はエリヤからエリシャへと移って行った。カギを握っていたのは、エリシャが預言者として立つ上で、エリヤの霊の二つの分け前をはっきり求めたことにあった。こと信仰のこと、霊的な賜物を受け継ぐことにおいては、二倍のものを求めるのは決して求めすぎということはない。むしろ、しっかりと求めるべき!と教えられるのである。
ともすると、お金や物、この世の地位や名誉はいたずらに求めるものの、信仰のことになると、やけに慎み深くなってしまったり、淡泊であったり・・・・ということがある。とてもパウロのようにはなれない・・、到底なれない・・、ほどほどにしておこう・・・・などということはないだろうか。そうかと思うと、自分が熱心に求め始めると、周りから深入りしないようにとブレーキがかかったりするのである。
熱狂とか狂信とかでない熱心、熱い心、熱意をもって信仰を求めるのは大事なことである。昔の聖徒たちに習うこと、そして主イエス・キリストご自身に習うことにおいては霊の二つの分け前が私のものとなりますように、と求める熱い求めを持ちたい。誰かがそれをかなえてくれるのではなく、私たち自身が主に向くなら、主がそれをかなえて下さるのである。
まことの信仰は他人まかせでではない・・・・。私たち一人一人が主から力を与えられ、確かな信仰をもって歩むことができるのである。それこそ感謝すべき、すばらしいことなのである。
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