礼拝説教要旨(2003.10.05)
憐れみ深い神
(列王記第二 1:1〜18)
 北イスラエルの王アハブは、アラムとの戦いで死に、その子アハズヤが王となった。そのアハズヤは主の目の前に悪を行い、彼の父の道と母の道、それにイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んで、イスラエルの神、主の怒りを大いに引き起こしていた。列王記第二1:1以下は、そのアハズヤの悪行と、それに対する主の裁きを記している。わずか2年の統治の間の背きの特長的出来事・・・・。(※足掛け2年)

1、アハブの死後、それまで力をもって抑え込まれていた近隣諸国は、チャンスとばかり反抗ののろしを上げていた。モアブしかり、エドムしかり、もちろんアラムも・・・・。恐らくアハズヤは、なかなか心安らかには過ごすことができず、国を守ることに懸命な日々が続いていた。それでいて、主に頼ることは一向に考えない、いや考えようとはしないでいたのである。

 眠られない暑い夜、屋上の部屋で涼んでいたのだろうか、その部屋の欄干から落ちて病気になったという・・・・。ケガから何かの病気になったのかもしれない。しかしことの真相は、それで何か重い病気になったというより、ますます精神的に不安定になった・・・・ということのようである。

 彼はその不安や恐れから逃れようとして、主に問うのではなく、エクロンの神、バアル・ゼブブに使者を遣わし、お伺いを立てようとした。主を知りつつも背いている。それは的はずれが甚だしいにも拘らず、当人は大真面目という、とんでもない愚かさを示している。(※エクロン地方の異教の神:ハエの主、神、疫病をもたらす神・・・・。)

2、主はこの時、直ちに預言者エリヤを遣わされた。アハズヤの過ち、その愚かさを責め、戒めようとされた。「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか、それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」(3〜4節) 

 エリヤによって告げられた主の言葉を、使者たちが王に告げた時、王は驚き戸惑った。帰りの早過ぎることとその内容から、アハスヤは戸惑いの中で、もしやエリヤでは・・・・と直感したのであろう。その直感は、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と聞いた時、確信に変わっている。彼もまた、父アハブの時代からエリヤの存在と力が主なる神によると、見聞きしていたはずであった。にも拘らず、彼は心を閉ざしていたのである。

 主はエリヤを遣わして、アハズヤに対しても悔い改めを迫っておられた。「あなたは必ず死ぬ」と厳しく語られたが、あくまでも罪、過ちに気づかせようとしておられた。主の言葉を聞く者には、心を入れ替える余地が必ず残されているのであった。

3、心を閉ざすアハズヤは、エリヤを捕らえるために50人隊長を部下とともに遣わした。エリヤを捕らえ、処刑しようとしたのである。

 「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください」との隊長の言葉は、「降りて来い!」と王は命じているとの意味であった。エリヤは、「神の人」として王に招かれているのか、そうでないのか、神からの答を待つかのように答えている。(10節)すると、たちまち天からの火が隊長と部下の50人を焼き尽くしてしまった。

 この事もまた、神からのアハズヤに対する悔い改めへの促しであった。けれども彼は、その促しには答えず、再び50人隊を送って、もっと強い調子で「急いで降りて来い!」と命じている。「神の人よ」と呼びかけながら、神の人とは認めない者たちの上に、神は再び裁きを下された。

 主は繰り返し、王に心を入れ替えよ!と迫っておられる。しかし王はなおも心を固くして、三度目の50人隊派遣をするのであった。

4、三人目の50人隊長は、先の二人とは違って、エリヤの前にひざまずき、懇願して語った。(13〜14節) 「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。・・・・」

 王からエリヤを捕らえてくるように命じられたのであろうが、自ら一切の事をよくよく判断して、心を低くして語ったのである。主はエリヤに、この隊長のところに行くように命じられたので、ついにエリヤはアハズヤの前に立つことになった。そしてエリヤは主の言葉を告げた。(16節)

 主はもう一度悔い改めを迫られた。もし悔い改めないなら、「あなたは必ず死ぬ。」と宣告された。主は悪しき者を必ず裁き、退けてしまわれるのは確かなこと・・・・。けれども、ご自身の憐れみの豊かさに従って、罪人が悔い改めるのを、主は待ち続けておられたのである。にも拘らず、アハズヤはついに心を入れ替えることなく、主の言葉のとうりに死んだのである。

<結び> 「主のことばのとうりに死んだ。」という表現からは、神の言葉の厳しさが思い知らされる。しかし、先にも学んだように、神が罪ある者、悪しき者に近づいてくださる時、厳しさとともに、それ以上の憐れみの豊かさ、憐れみ深さをもって近づいてくださる事実を、私たちは知る必要があるのではないだろうか。何とかしてその事実に気づきたい!!

 詩篇116:5〜7に「あわれみ深い主は、わきまえのない者を守られる・・・・」と詠われている。イザヤ55:6〜9では「主を求めよ。お会いできる間に。・・・・」と招きの言葉が語られている。

 私たちにとって大切な事は、アハズヤに自分の姿を重ねられるかどうか、なのかもしれない。自分はアハズヤよりましな人間と思っているとしたら・・・・。

◎この私を救いに招くためキリストは遣わされ、十字架で身代わりとなられたこと、この頑なな私が悔い改めて信仰を言い表すのを、神はずっと待ってくださったことなど、神の憐れみ深さのゆえに、今の私があるということを何よりも喜び感謝し、神を心からほめたたえることは、私たちにとってふさわしいことである。

※洗礼式、信仰告白式:悔い改めと信仰を明らかにする時・・・・。神がこの時まで待ってくださったという事実、これに続く人が起こされるように待ってくださる事実などなど、いろいろな事が思いめぐらされる。この場にいる皆が、心を柔らかくされて主の憐れみにすがること、その幸いを心に留めたい!!!