この聖書箇所は、この書を締めくくるまとめの部分である。南ユダ王国と北イスラエル王国の二つの国がどのように歩んでいたか、その対象的な様子が記されている。
1、アハブ王の求めに応じてアラムとの戦いに出たヨシャパテ王は、命からがらエルサレムに戻ったとき、その同盟は全く主のみ心にかなわないものであったと、はっきり告げられていた。(歴代誌第二19:1〜3)
彼は大いに恥入って、主の前に自らの過ちを悔いていた・・・・。
ヨシャパテはその人生において、父アサ王が主に従ったその道を歩むことに心を注いでいた、と記されている。すなわち、「主の目にかなうことを」行ったのである。
彼は、主の目が地にあまねく注がれていることを決して忘れなかった。主が見ておられることを心に留めて、主がよしとされることを行おうとしたが、その生き方を父アサから学んでいたのである。
2、 けれども人の歩みは、この地上では決して100%完全なものとはなり得ないのである。ヨシャパテは国中に真実な信仰を大いに広めたが、高き所は取り除かなかったと記されている。(43節)※バーモース
カナンの異教の礼拝場所がなおも残り、それを取り除くことはヨシャパテにとってもまことに困難だったわけである。あるいはその困難には手をつけなかった・・・・。その場所を使っての異教の礼拝は続けられ、またその場所で主なる神を礼拝することも行われ、異教とまことの神礼拝とが混じり合うことも避けられなくなって行ったのである。
また、一方で、カナンの地に残る異教の不道徳なしくみ(神殿男娼)を除き去りはしたが、他方、自分自身の国がいよいよ豊かになり、富み栄えることにはどこまでも熱心であった。北王国とは友好関係を結び、南方のエドムはまだそれほど力をつけていないと見るや、南の港から諸外国との交易を大いに広げようとしたのである。しかし、この交易の拡大は主によって戒められたのである。一端はアハズヤと手を結び、後にそのことを悔い改め、引き下がったというのである。(歴代誌第二20:35〜37)
ヨシャパテは主の目にかなうことを確かに求めながら、ときに心揺れて歩んでいた。そのようなとき、主は彼を正しい道に引き戻して下さっていたのである。
3、同じ頃、アハブとその子らは・・・・というと、彼らも主を知らないはずはなかったのであるが、主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こして歩んでいたと記されている。アハブの罪は、余りにも確実にその子に受け継がれていたのである。(51〜53節)
北イスラエル王国はヤロブアムが金の子牛を造って、それを拝ませる罪を国中にはびこらせたことから始まり、主の怒りを引き起こしていたが、アハブとイゼベルの結婚によって、バアル礼拝とアシュタロテ礼拝が一層強化されていた。アハブはイゼベルのために、サマリヤにバアルの宮と祭壇を築くことまでしていたのである。
この二人の子アハズヤはそれを習い、わずか二年の統治であったが、主の目の前の悪は、父の道、母の道、それにヤロブアムの道に歩んだと言われるほどに、激しかったのである。
4、アハブの家、ヨシャパテの家、どちらの家も親の生き方が子に大いに影響を与えているのは明白である。主の目にかなうことを行うのも、主の目の前に悪を行うのも、親から子へ、子から孫へ・・・・と。
但し、聖書は一貫して、正しいことが受け継がれて行くことの困難さを、より明確に告げている。
確かにヨシャパテは父アサに習って、主の目にかなうことを行って歩んでいた。心を配って正しい道を歩もうとしていた。けれども、しばしばその信仰は揺らぎ、主に信頼し切れず、人に頼る道を必死に探ったのである。また彼は富を得ること、力に頼ることをに絶えず心を動かされていた。アハブと縁を結んだのは、その力を借りるだけでなく、自分の力に頼られるのも、きっと心地よかったのである。こうして彼は、自分の子ヨラムにアハブとイゼベルの子アタルヤを妻として迎えていたが、そのことが後に大きな罠となって、南ユダ王国もまた主の目の前に悪を行う道を開いてしまうのである。(歴代誌第二21:4〜7)
<結び> どんなに良い人、正しい人と周りから見られ、評価されていたとしても、その人自身はどこまでも不完全・・・・、生ける神の憐れみによらなければ、とうてい清い神の前に立ち得ない・・・・ということを覚えなければならない。
アサもヨシャパテも「善王」とされているが、アサもヨシャパテと同じように失敗を繰り返している。(歴代誌第二16:1以下)
北王国を飛び越してアラムと同盟しようとしたとき、主から戒められていながら、悔い改めようとしていない。その後、病になったとき、主を求めず、医者を求めたと記されている。人はどこまでも不完全で、自分勝手・・・・と思い知らされる。
肝心なことは、その不完全さや愚かさのゆえに、神に頼ろうとするか否かではないだろうか。弱さを認めようとせず、隠そうとしてしまうことが多いのは、私たちも同じである。そのようにして自分の知恵や力に頼っていると、その誤った部分を子がしっかりと習ってしまうのである。
どうしても知恵、力、富、誉れ、栄光などに、人は心を奪われてしまうのだろうか。ヨシャパテは力を増して道をはずれ、その子ヨラムはすっかり主の道からそれてしまう・・・・。
◎主の目にかなうことを行って生きることを、それこそ大切に大切に追い求めたい!!! (箴言7:1〜3)。
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