礼拝説教要旨(2003.09.21)
主のことば通りに
(列王記第一 22:1〜40)
 イスラエルとアラムの間には3年の間平和な状態が続いた。先の同盟契約(いわゆる平和条約)のゆえに・・・・。しかし、その契約の期間が3年だったのか、再び対決の時が迫っていた。

1、アハブ王は、またまた主に頼ることではなく、人に頼る道を探っていた。21章からのつながりをを考えても、主の前に悔い改め、赦されて裁きを先送りしていただいていたにも拘らず・・・・。

 アハブは南ユダ王国の王ヨシャパテの力を借りようとし、彼を招いたようである。(2〜4節) ヨシャパテは父アサに習って、信仰面も政治面も良い働きをしていた王である。それでも国を守るということになると、近隣諸国の脅威というものには心を痛めることになり、その当時、ヨシャパテにとっても北王国との関係改善は、とても大きな関心事だったのである。

 アハブの求めに応えることになったヨシャパテであるが、いざ戦いとなると、彼自身は主のみ心を探るという信仰をしっかりと保っていた。そこで「まず、主のことばを伺ってみてください。」と申し出たのである。(5節)
 ※何事をするにも、この姿勢は信仰者にとって大事である。

2、ところが呼び集められた預言者たちは、みな口をそろえて、アハブ王の喜ぶことしか告げなかった。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」と。

 彼らは王に雇われた預言者たちだったのである。王の意志、王の願いや求め、そして計画を保証し、支持するためにのみ駆り出されるのである。
 ※御用預言者、御用学者・・・・。 ※政府の諮問機関:〜審議会etc.

 王は預言者たちを使って、神の名を利用するのである。そして預言者たちはひたすら王に取り入り、王を喜ばせて、自らを肥え太らせるのである。

 ヨシャパテは直ちには預言者たちの言葉を信じられなかった。他に信用のできるまことの預言者はいないのかと尋ねている。何か違う・・・と感じていたのである。(7節)

 こうして呼び出されたのはミカヤであった。アハブは彼に一目置くとともに、あえて彼は招かなかったわけである。主なる神のみ心は知りたくなかった。主のみ心ではなく、あくまでも自分の思う通りにしたかったのである。

3、二人の王の前に呼び出されたミカヤは、使いの者の口裏を合わせてほしいとの願いを聞いても、「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう」と答えている。彼は、人が何と言おうと、自分がどうされようと、主のことばだけを告げる覚悟ができていた。

 アハブ王の問に答えて、ミカヤは、「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます」と言った。しかし、ミカヤは、この言葉は主のことばではないことを、アハブに気づかせたのである。「主は仰せられた。」または「主はこう仰せられる。」という言葉を省いていた。そのように語ることによって、多くの預言者たちが告げた言葉は、主のことばではないことを皮肉を込めて明言したのである。そして、アハブはこれに気づいて苛立つのであった。
 主の仰せは、「戦いには出るな!」だったのである。戦いに出るなら、イスラエルの民は散らされてしまう。敗北する。そうならないためには、兵を家に帰すこと! と主はミカヤによって告げられた。(17節)

4、ミカヤは他の預言者たちとは全く違う言葉を主のことばとして告げたていた。そして、違っている事情を明かにした。(19〜23節)

 全てのことは、主なる神の摂理のみ手の中で起こっていた。

 神は戦いをさせようとされたのだろうか? そうではない。神に信頼し、戦わない道を選び取らせようとしておられたのである。惑わす者がいて、惑わす霊がいかに巧妙に働きかけるとしても・・・・。

 実際には、惑わす霊が偽預言者たちに働きかけ、彼らをして王を戦いへと駆り立て、その戦闘で倒れる道を進ませてしまうのである。

 偽預言者たちと対立したミカヤは、捕らえられ、獄屋に入れられてしまったが、王が無事に帰って来るか来ないかで、どちらの言葉が主のことばであるか、明かになると明言している。(28節)

5、アハブはヨシャパテとともにアラムに対して戦闘を開始した。ところが、自らの死を恐れて変装している。身の危険をヨシャパテだけに押し付け、自分を守ろうとしているのである。

 アラム側はアハブ王だけをつけ狙った。そして王服を着たヨシャパテに近づいたが、アハブではなかったので、それ以上の追撃はしなかった。ただその時、何気ない一矢が変装していたアハブを射抜いたので、彼はその傷で命を断たれてしまった。主のことばの通りにアハブは倒れ、死んで葬られた。

 主のことば通り・・・・ということが余りにも明白であるが、それは、主のことばに背いて自分の道を突き進んだアハブの身に振りかかっていたことである。もし主のことばに聞き従っていたなら、赦され、守られ、生かされる道が、実ははっきりと示されてもいたのである。このことを見落とすことはできない。

 主が語られた通りに裁かれてしまった・・・・というのではない。そうではなく、祝福のことばや、確かな守りの約束を退けてしまったので、裁きは主のことば通りに下されたのである。

<結び> 神、主を恐れて生きることこそ、私たち人間の本分であることを改めて知ることができる。よくよくそのことを悟りたいものである。
 伝道者の書12:13〜14、箴言1:7

 ※ヨシャパテ:追われた時、助けを叫び求めた。主に呼び求めたのだろうか。それとも、ただ人に叫んでいるだけなのだろうか。
(参照:歴代第二18:31)

何故アハブと一緒に戦ったのだろうか。
 ※人は、「戦わない!」という選択がなかなかできない存在なのか。しかし神、主に信頼する時、その選択が可能となる!のであろう。