礼拝説教要旨(2003.09.14)
神は見ておられる
(列王記第一 21:1〜29)
 イスラエルの王アハブはアラムに対する勝利によって、主こそ神であること、主に聞き従うことこそ幸いと知るはずであったが、かえって高ぶり、主に聞き従うのではなく、自分の思いを通してしまった。預言者が遣わされ、間違いに気づかされても、なお悔い改めることなく、自分の道を突き進んだ。21章に記されていることも、そのようなアハブ王の姿の一端である。

1、アハブ王は、イズレエルという土地にも宮殿を持ち、その宮殿のそばにあるナボテという人が所有するぶどう畑を譲ってもらいたいと願い出た。

 その畑はカルメル山の北を流れるキション川の流域にあり、肥沃で作物の豊かな実りが期待できる土地であったようである。「野菜畑にしたい・・・、もっと良いぶどう畑をあげよう・・・。」 アハブの思いは、王としての威信をかけて所有地を増やしたかったのである。初めは正当に譲渡を申し入れているわけで、何ら不当ではなかった。

 ところが申し出を受けたナボテにとっては、その土地が先祖からのもので、譲り渡してはならない土地であったので、その規定を守って王の求めを断わったことから、話はこじれて行った。
※参照レビ記25:23〜24、民数記36:7〜9

 ナボテは、主からの譲りの地としてそれを守ろうとしただけであったが、アハブは不服で、不機嫌となり、怒りを鎮めることができなかった。主の定めを優先する心があるかないか、主を恐れる心があるかないか、そのことが明かになるのである。

2、このアハブを見て、けしかけるのが妻イゼベルである。「あなたは王様でしょ! なぜグズグズしてるのですか!! しっかりしなさい!!!」とばかり・・・・。さらには「この私が、あの畑を手に入れてあげましょう。」とまで言い切っている。

 イスラエルの王権理解と、異邦人の王権理解にはギャップがあった。神がイスラエルに王を立てて下さったとき、民の上に立つ王というより、民に仕える王、民に益をもたらす王という視点が大切なことであった。しかしイゼベルには、力をもって民を支配する王という視点だけがあったものと考えられる。

 イゼベルは、この世の王なら・・・・とばかり、王の名で書状を作り、公に手続きを踏みつつ、不当にナボテの土地を取り上げる手はずを実行に移してしまった。

<1>ナボテの罪をでっち上げ、
<2>裁きの場に引き出す。
<3>偽の証人を二人立て、
<4>石打ちにて処刑する・・・・。
時の権力に擦り寄る者には易いこととばかり、偽の証言によってナボテ殺害は実行されてしまった。
 ※政治家が闇の力を借りて、思いのまま目的を遂げてしまうのは、今日に至るも行われているのかと思うと、やり切れない気持ちになる・・・・。

 アハブは恥ずかしげもなく、妻イゼベルに言われるまま、ナボテの畑を自分のものとして取り上げようと出かけて行った。

3、しかし、神、主はこのすべてを見ておられた。そして預言者エリヤを呼び、アハブの前に出て行くように命じられた。主はアハブの悪行を思いとどまらせようとされたのである。※但し、もうすでにナボテは殺された後なので、思いとどまるかどうかより、罪そのものに気づかせようとされた。
 エリヤははっきりと罪を指摘した。そして罪に対する神の裁きを告げた(19節)。
「主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、(土地を)取り上げたものだ・・・・」
 ・主はあなたの悪をはっきりと見ておられる!
 ・あなたの罪、そしてイゼベルの罪のゆえに、あなたもあなたの子孫も除き去られる。あなたの家は断ち滅ぼされる!!

 アハブはこれまでの経験上、エリヤの登場には必ず背後に神のみ手があること、そして神の意志があることを無視できないでいたようである。エリヤが神によって遣わされていることを知り、神の裁きの厳しさを悟らないではおれなかった。神の裁きを恐れ、おののいている。

 イゼベルにそそのかされたとは言え、主の目の前に悪を行い、イスラエルに偶像礼拝をはびこらせた罪、そして今回の人殺し、土地の収奪は言い逃れできるものではなかった。

4、アハブはエリヤの背後にいる神、主の前に心を動かし、悔い改めを形に現した。「自分の外套をを裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。」(27節)

 すると神はその遜ったアハブを赦し、直ちにはわざわいを下さないと言われた。(29節) いかに悪王と言え、悔い改める者を主は赦して下さるのである。問題はこの悔い改めが、真実なものとして継続するかどうかであった。

 一時的であれ、真実な悔い改めは直ちに赦しにつながことが明かにされている。そして人は、その赦しを喜び、一層確かな持続する悔い改めに、また実を結ぶ歩みへと前進するように求められているのである。アハブについては、残念ながらその一生を通じて、神に従うことなく、むしろ神の怒りと裁きを免れることはできなかった。

<結び> アハブの姿を通して、それでは今、私たちはどのように生きるのか、生きているのかが問われている。

 生ける真の神はすべてのことを見ておられる! 起こり来る一切はもちろん、私たちが心の内に思い図る一切を知っておられる。その神の前に私たちは生きている・・・・。

 ある時は心素直になっても、ある時は心かたくなになる。そして高ぶって自分勝手に振舞い、ようやく罪に気づいて悔い、遜って主のもとに帰る。主と共に歩むことこそ幸いと知っていながら、またそこから離れようとすることがある。ようするに、この地上を歩むかぎり、私たちは実にいろいろな歩みをする者である。しかし、どんなことがあっても、神に従うこと、主の教えに聞き従うことが肝心である。神が遣わして下さった、救い主イエス・キリストにこそ習って歩み続けることを祈り求めること!!

 失敗した時、罪を犯した時、悔い改めるなら神は赦しと下さるのである。報いは刈り取らねばならないとしても、裁きは思いとどまって下さり、赦して見守って下さるのである。

 私たちには、悔い改めるのに速やかであることが何よりも求められている。赦されて心安らぐ幸いを得て生きることができるからである。このような生き方こそ、神の前に本当に幸い!と知る者となりたい。
 =詩篇32:1〜5、 ローマ4:7〜8=