礼拝説教要旨(2003.09.07)
主に聞き従う幸い
(列王記第一 20:1〜43)
 ルカ福音書最後の段落(記事)は、復活後の主イエスの地上での最後の出来事・・・・、昇天とその後の弟子たちの様子を記している。昇天の記事ではなく、復活後の40日間の一場面という考えもある。
※昇天はオリーブ山、これはベタニヤ・・。しかし、50〜51節の記述は明らかに別れの場面で、52〜53節はその後の弟子たちの姿と考えられる。

1、この短い記述は地上での決定的な別れを記しているとともに、別れたはずの主と弟子たちの間には別離の悲しさや淋しさはいっさいなかった、そのことを告げている。
 ・「非常な喜びを抱いて・・・・」:大きな喜びを抱いて・・・・
 ・「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」

 もちろん別れのとき、彼らは戸惑っている。(使徒1:9〜11)それは当然である。見ている間に天に昇り、雲に包まれて、見えなくなったとき、 彼らは見えなくなっても、天を見上げて立ち尽くすしかなかった。次の行動にはなかなか移れず、み使いの促しによって、ハッ!と我に帰るのである。

 けれども弟子たちは、ボンヤリと足取りも重くエルサレムに戻ったのではなく、大きな喜びに包まれて帰ったのであった。

2、別離の後、動揺せず、悲しさや淋しさではなく、大きな喜びに包まれていたこと、これが主イエス昇天後の弟子たちの、特筆すべき特長である。
 ・普通に人が経験することと大きく違っている:通常、別離の後、人が味わ  うのは、悲しみ、淋しさ、喪失感、無気力感等々。
 ・いなくなった人の存在が大きければ大きいほどその痛手も大きい:指導者が有力であればあるほど・・・・。

 常識的にはとても深刻な状態に陥りそうなときに、弟子たちは喜びに包まれていた。しかも非常な、大きな喜びに! これは、主イエスがこの世に来られたのは喜びをもたらすためであり、その目的が見事に達成されたことを示している。
 ・ルカ2:10〜11 「すばらしい喜び」:大きな喜び

 神が人となって、人と共に住み、罪の赦しを与え、滅びから救うためにキリストは世に来られていた。主イエスはそのキリストとしての生涯を全うされた。十字架の死と死からのよみがえりによって、救いのみ業を確かに成し遂げてくださったことを、弟子たちは今やはっきりと知り、主イエスをキリストを信じる者となっていた。そして、この救いの福音を宣べ伝える者となるよう、主からよくよく告げられ、任命されたことによって、主の昇天に当たっても、もはや動揺することなく整えられていたのである。

 目に見える見えないにかかわらず、復活の主は共におられると確信し、喜びに包まれていた!

3、主イエスご自身は、弟子たちに父なる神が約束されたもの、聖霊を与えると励ますとともに、別れる前には、手を上げて祝福の祈りをささげられた。これは、弟子たちを決して一人にはしない! という祝福であり、別れてもあなたがたと共にいる、天において大祭司として、あなたがた一人一人のために執り成しているとの約束が込められた祝祷だったのである。
 見える形では離れていても、見えない霊的な意味では、もっと確かな形で、「あなたと共にいる。あなたと共にいてあなたを守る。」という意味があった。 ・ローマ8:31〜39、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、         いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の         右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるの         です。」(34節)
 ・ヘブル4:14〜16、7:25〜27、9:11〜14、9:24以下、10:12、10:19以下。
・マタイ28:20

 主イエス・キリストが天にいて、父なる神に執り成していてくださることの確かさ、これが弟子たちにとって、復活の主が共にいてくださることの喜びのもと、喜びの源である。罪を赦され、もはや裁かれることなく、命に与ることの幸い、平安、これを主イエスは弟子たちに与えてくださったからである。

 彼らは、主が「わたしがこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)との約束の言葉をはっきりと理解した。それ故に彼らは、喜びの内に宮にいて、神をほめたたえる礼拝をささげつつ、約束の実現する日を待つことができたのである。やがてペンテコステの日、約束の聖霊が降り、彼らは正しく力を着せられ、力強く復活の証人として歩み始めた。その力強さは誰もが驚くほどであった。

<結び>「復活の主が共におられる」というこの幸い、平安、祝福は、今日においても人の常識的な視点とは違っている。少しだけ・・・・ではなく、全く違っているというほどである。

 通常人は見えること、目で見て確かめ、手で触れることに頼り易い。直接的なものを頼りとするのである。しかし、主イエスは目には見えなくても共にいて、助けの手を差し伸べてくださる。主イエスを罪からの救い主と信じる者に、罪の赦しを与えてくださり、いつ、どこにあっても天から見守り、天において執り成しいてくださるという形で共にいてくださること、これこそ最も確かで完全な守りなのである。

 目に見えるだれかや、何かに頼るのでなく、主イエス・キリストに頼ることは、いつ、どこにいても、どんな状態にあっても、何者にも妨げられることなくできること!! これにまさる助けはない!!!
 ・ピリピの牢獄でのパウロ:使徒16:24〜25、ピリピ4:12〜13
・ペテロ第一5:6〜11

◎主日礼拝の最後の祝祷は、礼拝で神の前に出、その場を去るの当り、どこにあっても神が共にいてくださることを祈るもの・・・・。主が共にいてくださる大きな喜びの内にこの週も過ごせるように、どこにあっても主が共にいてくださることを覚えられるように・・・・との祈りである。

◎弟子たちと同じように、目に見える形で主が側にいてくださらなくても、心騒がせることなく、復活の主が共におられることを大喜びする信仰に私たちも導かれたい。