悲しみの道(ヴィア・ドロロサ)を通り、ゴルゴダの丘、処刑場に連れて行かれた主イエスは、他の二人の犯罪人と一緒に十字架につけられた。丘には三本の十字架が立てられ、イエスを真中にし、犯罪人の一人は右に、もう一人は左につけられていた。
1、「きみもそこにいたのか」という聖歌がある。
聖歌400番の黒人霊歌として有名な歌・・・。
<1>きみもそこにいたのか、主が十字架につくとき、
ああ・・・・なんだか心が震える、震える、震える。
きみもそこにいたのか。
<2>きみも聞いていたのか、釘を打ち込む音を、・・・・。
<3>きみも眺めてたのか、血潮が流れるのを、・・・・。
<4>きみも気がついたのか、突然日が陰るのを、・・・・。
<5>きみも墓に行ったのか、主をば葬るために、・・・・。
もし自分が主イエスの十字架のその場に居合わせたなら、果してどのように感じ、どのようにしただろうか・・・・と自分に問いかける歌である。
実際、その日十字架の周りにいた人々はどのようにしていたのだろうか。ローマの兵士たちは、黙々と任務を果たすだけでなく、イエスを嘲っていた。途中から十字架を負わされたシモンは、戸惑いと恐れに包まれながらじっとしているほかなかったであろう。民衆は嘲りに終始し、ユダヤ人の指導者たちとともに、ある種の満足感さえ抱いていたに違いなかった。弟子たちとガリラヤから来た女たちは恐れと悲しみに打ちのめされていたのである。
主は人々に捨てられ、辱められ、嘲りのまっただ中で、苦しみと痛みを耐えておられた。その姿は正しく約束のメシヤの姿であり、救い主として世に遣わされたキリストの姿であった。罪人の一人に数えられたことは、イザヤ53:12に預言された通りであり、着物のくじ引き(詩篇22:18)も、民衆の嘲り(詩篇22:7、8)も、そして酸いぶどう酒の差し出し(詩篇69:21)も、一つ一つメシヤ預言の成就として苦しみの極みを味わっておられたのである。
2、苦しみの極みの中で主イエスが発せられた言葉の一つが「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」であった。
敵対する者たちのための父へのとりなしの祈りである。その敵対する者たちとは誰なのか。主は誰のためにとりなされたのか。兵士たちのため? 民衆やユダヤ人の指導者たちのため? 逃げてしまった弟子たちも含まれているのだろうか・・・?
十字架刑が正しく執行されていた。罪なき主イエスが罪人の身代りにその刑を受けておられた。主はそのことが分からないすべての人々のためにとりなしておられたのである。何をしているのか分からないまま事に当たっている人々のために祈られたのであるが、「彼らをお赦しください」と祈りつつ、やがて彼らを十字架の意味を知る者としてください、悟る者としてください、と祈っておられたのである。
心かたくなな人々は、「自分を救ってみろ」となおもしるしを求め、イエスを嘲っていた。そして、十字架につけられたままのイエスを敗北者として蔑み、自分たちは自由で、何の助けも救いもいらないとばかり勝ち誇っていた。しかし彼らこそ救いが必要であり、罪の赦しを求めなければならないのである。
3、主イエスのとりなしの祈りを近くで聞き、自分の心の内を探られていた人がいた。それは一緒に十字架につけられていた犯罪人の一人であった。祈りを聞いたのは彼一人ではなかったはずである。兵士たちも近くで聞いたにちがいなく、もう一人の犯罪人も、そして民衆も・・・・。
聞こえても聞き流してしまったか、聞こえたその祈りの意味を考えるようになったか、その違いはまことに大きい!! 二人の犯罪人ははじめは同じようにイエスに悪口を言い、イエスをののしっていた(マタイ27:46)。ところが時間の経過とともに、そしてこの祈りの言葉を聞いてから、その内の一人は自分たちは当然の報いとして今刑罰を受けているとしても、主イエスは何の罪も犯していないことに気づいたのである。彼はイエスの無罪性を知って、この方は神ではないか・・・、この方に自分をおまかせしようと心を決めることになった・・・。こうして彼はもう一人の犯罪人をたしなめ、イエスに告白しているのである。
彼は自分こそが罪を赦されなければならないことを悟って、「私を赦して下さい」との願いを込めて、「私を思い出してください」と告げている。何も分からず数々の犯罪を繰り返したが、今こそ主イエスによって赦していただこうと心から願っている。罪を認め、刑罰をいさぎよしとするそのような悔い改めをしていたのである。ー主イエスと自分との違い=無罪性と有罪性=を知ること、悟ることが真実な悔い改めにつながるー
<結び>この犯罪人が受けた報いは、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」との宣告であった。これは、「死んだ後、必ず天国に行けます。救われます。」という約束以上のものである。「今苦しみの只中で、わたしとともにパラダイスにいます。神の国、天のみ国にいます。」と主は言い切っておられる。なお続く苦しみがあっても、わたしはあなたと共にいる。苦しみも痛みも共にする・・・と。これはこの人にとって、最高の慰め、大きな支えとなるのである。
◎彼の心は罪を赦された者が味わう平安を得、痛みと苦しみの中にあっても、心安らぐ幸いを得ていたに違いなかった。主イエスを信じる信仰の確かさ、その信仰のもたらす幸い、救いはこのことにこそあるのである。その点では、もう一人の犯罪人でさえ、この信仰になお招かれていたと言える・・・。
◎私の罪の赦しのために主イエスは十字架について下さったと知る人、信じる人はまことに幸いである。主は信じるすべての人に赦しを与えるため、
「父よ。彼らをお赦しください。」
と祈っておられたのである。赦されて心穏やかにされることを求めたい。心にある平安を何よりも喜び、その平安を証しする者として生かしていただきたいと心から願わされる。
|
|