二人の犯罪人とともに十字架につけられた主イエスは、その十字架の上で苦しみと痛みを耐えておられた。身代りの死の苦しみ、そして痛みをいささかも割り引くことなしに・・・・。
1、十字架につけられて3時間が経過した頃、時は昼の12時頃となっていた。全地が暗くなって、そのままなお3時間が過ぎて行った。
その暗闇の時間は沈黙の時として、不気味に過ぎていたようである。誰もがおし黙って、十字架を見上げるしかなかったのかもしれない。「太陽は光を失っていた」との表現は、「日食となる」ことを指しているが、実際には神の超自然的な介入があって暗闇が辺りを覆ったのである。一瞬にわかに黒雲が垂れ込め、人々が震え上がるような暗闇に包まれたのである。※過越の祭は満月の頃のことであるので、日食は起こらない季節である。
暗闇の不気味さに人は誰でもおびえたりするものであるが、十字架の周りにいた人々はみな、激しく動揺し、心を探られたに違いなかった。というより心を探られながら、その場に居させられたのである。
エルサレムの神殿では、聖所と至聖所を隔てていた幕が真二つに裂けた。雷鳴の轟とともにこのことが起こったのかもしれない。真の神に近づく道、天のみ国への門がこれまでの時代とは違った形で自由に開かれることを象徴する出来事としてこのことが起こっていた。
主イエスご自身、十字架の上で救いの道の新しい展開の始まりを確信して大声で叫ばれた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と。そして息を引き取られた。(※ルカ福音書は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との叫びは記さず、その後の言葉を記している。)
2、主はこの言葉を大声で叫んでおられた。(マタイ27:50、マルコ15:37、ヨハネ19:30)詩篇31:5の祈りの言葉であるが、これを十字架の上での勝利宣言のように叫んでおられたのである。
人々から捨てられ、みすぼらしい姿を十字架の上でさらけ出していたが、その十字架の死こそが罪人に救いをもたらす身代りの死であった。その死がもはや割引なしに成し遂げられたので、主イエスは父にその霊をゆだねて、息を引き取られたのである。
父なる神に霊をゆだねる、そして、その霊を父なる神が引き取ってくださること、これは人の死そのものを指してる。人はこの死を未知のこととして恐れる。ゆだね切れず、死そのものを受け入れられないのである。しかし、死に直面して神にゆだねることのできる人は、真に幸いである。それは逃げることでもなく、負けることでもない。かえって、それこそが勝利する者、勝利者の生き方である。人は神から出て、神に帰るべき存在だからである。
主イエスは十字架の上で勝利しておられた!! ルカはこの勝利を伝えようとしている。
3、勝利しておられたこの主イエスに気づいた人は果してどれくらいいたのだろうか。ほとんどいなかったが、百人隊長はその心に何かを感じていた一人である。彼は神をほめたたえて、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言っている。(マタイ27:54「この方はまことに神の子であった」)彼は12時間以上に渡ってイエスに関わり、その人格に触れて、心動かされていたのかもしれない。
また、この処刑を見に集まっていた人々の中からも、胸をたたいて悲しみながら帰って行く人が現れていた。彼らもまた、罪のないお方の死の意味を考え始め、父なる神への信頼を口にして息を引き取られた主イエスのお姿に、心を打たれていたのである。
そして、他の誰よりもはっきりと心を動かされたのはアリマタヤのヨセフであった。彼はそれまでは自分の心の内を明かさないでいたが、今こそは自分の信じている所に立つ時と決心し、イエスの亡骸の下げ渡しををピラトに願い出たのである。復活の希望など考えもせずであったが・・・・。
彼は、主イエスが父にその霊をゆだねて息を引き取られたのを見て、自分も、今生きている限り、自分を父なる神におゆだねして生きる道を選び取ろう、そうすることが自分にとって一番大切な生き方!と行動を起こしたのである。その行動についてマルコ15:43では、「思い切って」と記されている。そしてこのヨセフに促されたのか、ニコデモも行動をともにしているのである。(ヨハネ19:38~39) 二人は主イエスの十字架上の勝利に心を動かされ、自分もその勝利に与りたいと真心から決心し、それを行動に起こしたのである。
<結び>「神にゆだねる」ということを、私たちはなかなか本心からしようとは思わないようである。信仰は弱い人たちのもの、祈るなんて・・・と強がる人が多い。まして神にゆだねるなんて、決してしたくないと強がってします。クリスチャンとして神を信じていても、なお強がっている・・・。
◎しかし、神にゆだねて生きられる、その生き方は本当の強さに与ること、本当に強い方に守られることである。それは勝利者の生き方!!
◎死において、「わが霊を御手にゆだねます」と言える人、そのように祈れる人は幸いである。その人は死の恐れから解き放たれる!!
◎日々の生活においても同じである。何事が迫ってきても、神に頼り、神にゆだねて生きる人はいたずらに騒がず、慌てることはない。神が心配していてくださるからである。(ペテロ第一5:7)
◎祈りに関する書物の多くが、一日の終わりに眠りに就くとき、神の御手にゆだねて床に就くように勧めている。子ども向けの祈りの本は、単純に「かみさま、くらいよるも ともにいておまもりください」と教えている。そのような祈りを繰り返しつつ、一生のあらゆる時に神にまかせ、ゆだね切ることを学ぶことができるなら、私たちも十字架上の勝利に日々与って生きる者となるのである。
☆そのように生かしていただきたい!!!
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