ユダヤ人たちの手に引き渡された主イエスは、十字架刑につけられるために、実際にはローマの兵士たちに引き渡されていた。まず民の目の前で鞭打たれ、その後総督の官邸内で紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶらされ、叩かれ、つつかれ、さんざん嘲られ、またもとの着物を着せられて刑場に向かうように官邸の外に連れ出された。マタイ27:26〜27 マルコ15:15〜16
1、主イエスは処刑場となるゴルゴダの丘に引いて行かれた。もうすでに身体は激しく傷つけられ、夜通しの裁判で体力は弱りきっていた。
・十字架刑のおいて、通常犯罪人は自分がはりつけにされる横木を背負って 刑場に行くことになっていたという・・・。縦木はすでに立てられていて。
・エルサレムの城門を出てゴルゴダまでの道は、「ヴィア・ドロロサ」:「悲しみ の道、または苦難の道」と呼ばれ、ローマ兵4人に囲まれて進む上り坂・・。
丘へと上って行く道は、すでに体力を消耗していたイエスにとってはきびしかった。とうとう十字架を背負いきれなくなったとき、兵士たちはそこに居合わせたクレネ人シモンを捕まえ、無理やり彼に主イエスの十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
・クレネ:アフリカ北部、今日のリビア地方。
・シモンは過越の祭りのためにエルサレムの町に来ていたユダヤ人。クレネ から来たのか、すでに近くに移住していたのか・・・。
2、シモンは礼拝のためにエルサレムに来ていて、たまたまその場に居合わせたのである。思いもかけなかった光景を目にして驚き、幾分同情の思いを込めてイエスを見ていたのかもしれなかった。そして弱りきったイエスの前に進み出て、手を差し伸べようとしたのかもしれない。ローマの兵士たちはその仕草を見て、これは好都合とばかり彼に十字架を背負わせたのであろう。
突然に重い十字架を背負うことになったシモンは、どんな気持ちでイエスの後ろからついて行ったのだろうか。自分の思いを心にグッとこらえるしかなかったに違いない。多分ほとんど事情が分からないまま、イエスの後ろからついて行くしかなかった・・・。
けれども、彼は後になって、自分が十字架を負ってイエスについて行ったその歩みは、イエスに従う弟子の幸いな道であることが分かるのであった。
・マルコ15:21「アレキサンデルとルポスとの父」、ローマ16:13「主にあって選ばれた人ルポ スによろしく。また彼と私の母によろしく。」との記述から解釈できることは、 シモンが後日、イエス・キリストを信じる信仰に導かれ、彼の妻、そして息 子たちがローマ教会の一員となっていたということである。
シモンにとっても十字架を負うことは辱めを一身に受ける出来事であった。けれども、やがてその経験を通して、罪の赦しを与えられる魂の救いにあずかる喜びと祝福を味わうことになるのである。
・イエスは誰なのか・・・、なぜ十字架につけられたのか・・・、いろいろ と真剣に考えることになったからである。
3、ところで、この悲しみの道を行く主イエスを人々はどのように見ていたのだろうか。ルカ福音書は「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った」と記している。
私たちは、イエスの姿に心打たれた人、真心から悲しみ、同情してイエスについて行った人が多くいた・・・とそう思いたい。そして主が女たちに「わたしのことで泣いてはいけない」との言葉は、悲しまなくてよい・・・と慰め、励ましていることと解釈したい。
けれども大ぜいの民衆は、イエスを十字架につけろ!と叫んだ人々である。そして嘆き悲しむ女たちとは、葬式のための泣き女たちだったのである。イエスの死を願った人々が、本当に悲しむわけでもなく、ただただ大声で泣きわめいて、かえってイエスを嘲っていたのである。悲しむそぶりをみせながら、反対にイエスを見捨てて、もう死んだものとして泣き叫ぶ、そんな人々の只中を主は歩まれたわけである。
それ故に主は、むしろ「自分自身と自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」と告げておられる。それは、自分の身に及ぶ裁きの日、滅亡の時のためにこそ備えよ!!との警告である。
29〜30節は近づいているエルサレムの崩壊、滅亡について警告である。それに続く31節、「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」との言葉はいっそう不気味・・・。ご自分の死のこととも、エルサレムの崩壊のことともとれる。いずれにせよ終わりの日の裁きの厳しさが暗示されている。
すなわち、すべての人は自分の生き方に責任があり、神の裁きの座に着かなければならず、その日のために備えて生きよ!と主は言われるのである。滅亡の日のために泣け!とは、その日が来る前に悔い改め、生き方を正しなさい!と言われているのである。
<結び>私たちは今朝教会の礼拝に連なり、神のみ前に静まっている。聖書を読み、主イエスの十字架への道を共に辿っている。この事実は、私たちもまたイエスの十字架への道、その悲しみの道の目撃者のひとりであるということである。どのような目撃者になるのかが問われている。嘲る者か、ぼんやり眺めるだけの者か。シモンのように無理やり十字架を負わされる者か・・・。
◎主イエスのことは知らなかった方がよかったという人がいるかも知れない。しかし十字架を負ってイエスについて行く人こそ幸いである。その人は救いにあずかり終わりの日の裁きから守られるからである。
◎今日は聖霊が弟子たち降ったことを記念するペンテコステ礼拝である。聖霊が降り、一人一人が聖霊に導かれて歩めることの幸いは、私たちが主イエスに従う決心をする上で助けと導きが与えられていることにある。聖霊は今日に至るまで、十字架を負って歩む人になるように、イエスについて行くように私たちに決断を促しているのである。
◎シモンは、イエスの十字架を自分の意志とは無関係に負わされたが、やがて自分こそが死ぬべき罪人と悟り、イエスは身代りとなって死なれたことに気づくのでる。私たちもその十字架の意味を知る者、悟る者となるべきである。そして自分の十字架を負ってイエスに従う幸いな弟子としていただきたい。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。・・・。」 ルカ9:23〜24・・・ |
|