6月=教会学校月間を迎えた。子供たちのための働きを覚え、祈りをもってこの月を過ごしたい。また、主イエスが「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに、はいることができません」と語っておられるが、私たち自身が子どもの心でみことばを聞き、子どものように主イエスに従うこと、信じることを求めたい。
1、今朝の聖書箇所は、ピラトの前での裁判の様子・・・・。ピラトは自分の責任でイエスを裁くのを回避しようとしたが、結局のところヘロデのもとからイエスが送り返されて来たので、やむなくその責任を果たそうとしている場面である。
この裁判の場面に登場するピラトは、一貫して優柔不断、気が弱そうで無責任なピラトである。
・実際にはまことに残忍で、冷酷な権力者であったという。(ルカ13:1以下)
・絶大な権力を与えられ、ユダヤ地方を統治するのであるが、ある時は力で、 ある時は恩情で・・・・と、それこそ世渡りの巧みさで総督の地位に就いて いたのかもしれない。
福音書が描くのは、そして強調しようとしたことは、ピラトの無責任さではなく、彼が下した判断、それが「イエスには何の罪もない」であったという点にある、
・このルカ福音書では、無罪であることが、4回告げられている(4、14、15、 22)。そして、その罪のないお方をピラトは何度も釈放しようと民にもちか けていたのである(16、20、22)。
2、主イエスは何の罪も見つからないまま、ユダヤ人たちによって捕らえられ、ピラトの前に連れ出されていた。
・神ご自身が神であると主張し、それが神冒涜罪に問われた。
・まことの王が、ユダヤ人の王としてローマ皇帝に背いていると責めたてら れていた。
いずれの訴えも、死に当たる罪としてピラトが認めるに十分な証拠を挙げることはできなかった。ピラトは「この人には何の罪も見つからない。・・・・罪は別に何も見つかりません。・・・・死罪に当たることは、何一つしていません。・・・・死に当たる罪は、何も見つかりません。」と繰り返している。
無実の者を有罪として裁くことはできない。だから釈放するのだとピラトは考え、そうしようとした。ところがユダヤ人の指導者たちと民衆たちの抵抗は激しかった。「十字架だ。十字架につけろ。」と激しく叫び続け、ついにピラトは民の声に屈してしまった。彼は最高責任者としての判断と行動を問われた時、その責任を手放すかのようにすり抜け、イエスを人々に引き渡してしまった。そして民衆の要求通り、犯罪者バラバを代わりに釈放し、それでよしとしたのである。
・罪のない方を罪ある者として処刑する道を開いた!
・どうして? なぜ?? なぜこんなに不当で理不尽なことが起こるのか?
しかし、神のご計画は揺るがなかった。罪のない主イエスが罪ある者の代わりに十字架の死へと進まれるのである。身代りの死は確実に成し遂げられようとしていた。
3、マタイ27:24によると、ピラトは民の目の前で手を洗って、私には責任がないと言い切っている。彼は自分は全く無関係・・・・と言いたかった。しかし彼は人々の叫び声に負けたのであった。
負けた理由は、
@ユダヤ人の暴動を恐れたからであり、その処理を誤ると、
A自分に責めが及ぶと保身に走ったからである。マタイ27:24、ヨハネ19:12〜13
ピラトは総督として、手続き上はそれなりに自分の責任は果してはいたが、肝心なことはしなかった。正当な裁きはしなかったのである。罪のないイエスを釈放せず、ユダヤ人の手に渡し、十字架の死へと追いやった。
このピラトが判断しなかったこと、正当に裁きを下さなかったこと、それこそが今日に至るまで、聖書を読むすべての人が判断しなければならないことなのである。罪のないお方が十字架へ道を歩まれたのは何の意味があったのか?イエスは本当に罪のないお方なのか? 一体誰の身代りとなったのか? バラバという犯罪人とただ入れ替わっただけなのか・・・・?
<結び>私たちは一人一人が自分の答を出すように求められている。もし自分の周りにいる人のことが気になり、また自分の生活を今までと同じように続けたいと思っているなら、ピラトと同じように、イエスは誰であるか、イエスは罪があるのかないのか、その判断を回避してしまうことになる。それが一番楽な道と思えるのである。
◎しかし、正直に立ち止まって、イエスは誰か、なぜ十字架につけられたのか、そのことは自分にとってどういう意味があるのかを考えるなら、必ず答が与えられる。
・十字架の出来事の痛ましさ、惨さ、それは敗北のようにしか見えない。敗 北そのもの・・。主は民の大声に負けて死に追いやられたかのよう・・。
・しかし、神のご計画は死からのよみがえりという勝利へとつながっていた。
◎私たちは十字架の死からよみがえり、今も生きておられる主イエスを信じる信仰に導かれている。罪のない主イエスが裁かれ、十字架の死に追いやられたのは実に私の罪の赦しのためであり、私の身代りとなって死んで下さったのである。まごころから主イエスを信じ、天のみ国にはいる日まで、イエスを信じる人々と共に歩み続けることができるように!!
※福島兄のこと:天のみ国に召されたと心から信じることのできる幸いがある。
地上での別れは淋しい。また悲しい。しかし、イエスを信じて先立って行かれたのである。本当の幸いを得ておられた。私たちも続いて行くこと!!!
=ヨハネ黙示録 14:13=
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