礼拝説教要旨(2003.05.11)
イエスこそ神の子、キリスト!
(ルカ 22:63〜71)
 主イエスがオリーブ山、ゲッセマネの園で捕らえられたのは、木曜日の夜のこと・・・・、夜中の内に大祭司の家に連れて行かれ、取調べを受けた。取調べは名ばかりで、判決はもう決っていたー死刑ー。ユダヤ人の当局者たちは、イエスを死に追いやることしか考えていなかった。(22:2)

1、ルカ福音書は、ユダヤ人当局者たちによる取調べについて一まとめに記している。そしてペテロの三度の否認後に、そのことを記している。

・実際には、主はまず前の大祭司アンナスのところに連れて行かれ、次に現大祭司カヤパのところに、そして夜が明けてユダヤ人の議会へと引き出されていた。

・ペテロの否認は夜明け前のことである。そして議会で尋問された内容は、すでに二人の大祭司の前で問われたことであり、ペテロは取調べのそのやり取りを耳にしていたはずの事柄であった。(マタイ26:59〜68)

 ペテロは監視人たちがイエスをからかい、むちで叩くのを見ていたであろう。目隠しをして打ち叩き、叩いたのはだれか言い当ててみろ・・・・と嘲っている様子を見聞きしていたのである。そして、さかんに「あなたがキリストなら、そうだと言え!」「あなたは神の子なのか」と問う、激しい言葉を聞いていた。

 彼は心の中で、主イエスはだれが叩いたか言い当てることのできる方、イエスは神の子で、キリストであると信じていた。ルカ9:20ではっきり告白している。しかし、今人々の前に、自分の信じていることを公にはできない・・・・と必死にこらえていたので、三度にわたって否認してしまったのてある。

2、ルカ福音書が描いているのは、ペテロによって知らない、関係ない・・・・と否認されたものの、主イエスご自身は取調べに対して、一貫してご自分はだれであるかを明確に告げておられたこと、自らをキリストであり、神の子であると明言しておられたことである。一連の取調べの様子を詳しく描こうとはしていない・・・・。

・かつてははっきりと告白したものの、今は口をつぐんでしまったペテロがそこにいたが、イエスご自身は議会の人々の前に、わたしはキリストであると、そして神の子であると言い切っておられた。

・ただし、奇妙なことは、ユダヤ人たちがイエスにそのように言わせようとしている点である。(67、70、参照マタイ26:63〜64)

・そして主イエスの証言を聞いた上で、神冒涜だ、死罪にに当たる・・・・と怒るのである。

 人の心はかくもかたくなで捻れてしまうのである。ユダヤ人たちは神を信じ、またキリストを待ち望みながらも、自分にとって都合のよい神を求め、自分が期待するキリスト像を描いて、ひたすら待ち望んでいたのである。そのため自分たちが期待していたキリストではないからという理由で、イエスを退けるのである。「私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言い切っている。(71) 

3、主イエスはかたくなな人々に向かって、「しかし今から後、人の子は神の大能の右の座に着きます。」と語っておられた。(69)

・神の右の座に着く方について、ローマ8:34では、ご自分の民のため、神にとりなして下さる方と言われている。しかし、ここでは、神のさばきに当たって、神の右の座に着くことを宣告しておられるのある。(20:42〜43)
 イエスを取調べ、さばこうとしていたユダヤ人たち自身が神のさばきの座に立たされること、そのことに気付いて自分を吟味せよ!と主は語っておられたのである。
 このことは、聖書を読むすべての人にも語りかけられていることである。すなわち、あなたはイエスをだれだと言いますか?と。
 福音書を通して、イエスの地上の生涯を辿りつつ、イエスを神の子、キリストです!と心から信じる信仰、信じて告白する信仰に導かれること、それが肝心なことである。そのために聖書は書かれている。ヨハネ20:30〜31。

<結び>私たちは自分勝手にに心をかたくなにしないよう学ぶことが大切である。また、自分に都合のよい仕方で神を呼ぶことのないように心しなければならない。

◎神を信じ、キリストに従おうとしつつ、自分勝手にキリストを追い求めていることはないだろうか?

 ・ユダヤ人たちの問題点は、キリストを地上の王、力をもって国に平和をも たらしてくれる王として待ち望んでいたことにあった。

・ともすると、私たちも毎日の生活の目の前の問題を解決してもらうために 祈り、自分にとってよいことをして下さる神を求めてしまっている。

 ・地上の 教会が神さまからの祝福と喜ぶことが、ともすると一人よがりの ものであることを反省しなければならない。地上で富栄えることは果して神 さまからの祝福なのか・・・・?

◎主イエスが神の子、キリストとして私たちを支配し、導いて下さる一番肝心なことは、私たちを内側から造り変え、清めて下さることにある。すなわち、罪の赦し・・・・。罪に死に、神に生きる。
 ・本心から神に聞き従っているか、そして周りの人々と和らいでいるか。
・まごころから仕える心で仕事をしているだろうか、他の人の徳を立てるた めに語り、振舞っているだろうか・・・・。
 ・今置かれているところで、喜んでいるだろうか、そして祈りつつ、感謝に あふれているだろうか・・・・。

◎主イエス・キリストによって造り変えられる歩みをよしとして、イエスこそ神の子、キリストですとの告白を堅く保たせていただきたい!