主イエスが捕らえられたとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言い張ったペテロも・・・。
ところが、さすがに逃げだしたことを悔やんだのか、ペテロともう一人の弟子ヨハネはイエスがどこに連れて行かれるのか、遠く離れながらついて行き、大祭司の家の中庭まで入って行くのであった。
1、ペテロはヨハネに比べるとなお恐れ、ためらいながら中庭に入り、寒さをしのぐため火が起こしてあるところに座り込み、人々に紛れて様子を伺おうとしていた。
・強がったわりには、脆くも逃げ出してしまった自分に驚くとともに、その自分を赦せない思いや、反対に自分も捕らえられしまうのか・・・という恐れに心は震えていた。心臓は高なり、ハラハラ、ドキドキ・・・、ドキンドキン。・勇気を出して、奮い立って主イエスの取調べを見届けよう!というのではなかった。せめてそこに居なければ・・・というところ・・・。
ペテロがもし、何が何でも主イエスを見つめ、主にのみ目を注いで、主のみ思いを探ろうとしていたならば、きっと力をいただいたのに違いなかった。しかし彼は、その中庭で、しかも暗がりの中にいたにもかかわらず、周りの人々の目、その視線を大いに気にして恐れていたのである。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 箴言29:25
※私たちも同じわなに陥っていることがしばしばである。
主イエスが捕らえられた後、弟子たちをも捕らえようという動きはいっさいなかった。だからペテロもヨハネも大祭司の家の中庭に入り、しもべやローマの兵士たちもいっしょに、火のまわりに座り込むことができたのである。にもかかわらず、ペテロは周囲の人々の視線を恐れ、人々が語る言葉に身震いしていた。
2、女の人がペテロをまじまじと見て、「この人もイエスといっしょにいました」と言われると、その言葉を必死に打ち消し、
「いいえ、私はあの人を知りません」とペテロは言った。
しばらくして、他の男の人が彼を見て「あなたも、彼らの仲間だ」と言うと、
「いや違います」とこれまたきっぱりと否定した。
それから大分時間(一時間)が経ってから、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言われると、
「あなたの言うことは私にはわかりません」と何としても言い逃れようとするのであった。
マタイ26:74では、「のろいをかけて誓い始めた」と記されている。彼は言われれば言われるほど必死になって、激しく強く否定し、だれも自分にはかかわらないでくれ!と言わんばかりの態度を見せていたのである。
しかしそうすることによって、ペテロはますます激しく主イエスを否認していたのである。決してそんなことはしない!と言い、するはずはない!と思っていたことが脆くも崩れていた。人を見て、人を恐れ、主イエスから目をそらすとき、主ご自身を忘れて否認し、サタンのわなに陥ることになるのである。
そして主イエスを否認することによって、自分自身がだれであるか、何者であるかさえも分からなくなってしまっていた。そこには神なしの人生がどれだけ危ういものか、その危うさが見えかくれしている。人間が人間であることさえ見失い、否定することにつながってしまうのである。
3、そんなペテロが我に返ることができたのは何があったからなのか。それは主イエスが振り向いて彼に目を留めて下さったことによる!
「主が振り向いてペテロを見つめられた。」(61節)
・ペテロが三度主を否認するのとほとんど同時に、鶏が鳴いている(40節)。主が予告された通りに・・・(22:34)。ペテロはその声をどのように聞いたのだろうか。鳴き声は聞いたが、主に見つめられるまでは無我夢中だったのかもしれない。しかし主に見つめられて、主の言葉を思い出したのに違いない。
「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われていたことを。
主のまなざしは果してどのようなものだったのか。ペテロを責めるものだったのか・・・。それとも悲しげなものだったのか・・・。あれほど言っておいたのに、やっぱり失敗したのか、と失望や怒りが込められていたのだろうか。
確かに悲しげだったかもしれない。けれどもペテロはそのまなざしを通して、主イエスが自分のために祈って下さった、そのみ思いを知るのである。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あのたのために 祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりな さい。」と言って下さったその言葉の意味を悟らされた。
・そのように語って下さったその時のまなざしを見たのではないか・・・。
何とか立ち直るように!勇気をもって立ち上がるように!と励まして下さるそのまなざしにペテロはふれたのである。彼は自分の心の内を見通しておられる主のまなざしに震えおののくのではなく、かえってそこに安心を見いだすことが出来た。こうして彼は悔いの涙を流すのである。自分の愚かさ、弱さ、そしてもののみごとな失敗を悔いて、激しく泣くしかなかったのである。
<結び>主イエスの赦しと憐れみに満ちたまなざしがペテロを悔い改めに導いた。彼は、主は私の心の内を全て、全く見通しておられることを悟ったのである。ペテロ自身もはっきりと主を見たのである。まなざしにふれる・・・。
・他の人から心の内を探られるのは、通常だれでもあまり嬉しいことではない。どこまでいっても心と心がすれ違うからだろうか・・・。
◎しかし、主イエスご自身に知られることはむしろ安心なこと。まことに幸いで、主に知られていることは、私たち自身の生き方が定まることと知るべきである。どれだけ愚かで、失敗があっても、主は私たちの悔い改め、そして立ち直りのために祈っていて下さるからである。とりなしていて下さる。
・まごころから悔い改めるなら必ず赦される!
◎神に赦されて生きる、生きられること、これこそ人間にとって本当の幸せ!
◎私たちもまさしくペテロにならう歩みが導かれるように!主イエスに見つめられ、見守られている幸いな歩みを!!
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