最後の晩餐に続いて、おそらく同じ大広間で、イエス様が弟子たちに語っておられる場面の続きです。先ほど読みましたように、ペテロがイエス様を三度、知らないと言ってしまうことを、イエス様が告げられた場面です。シモンはペテロのこと。シモン・ペテロ個人は、神の守りが取り去られたら、いかにたやすくサタンの餌食となり、イエス様に背いてしまうか。人間の弱さ、脆さが浮き彫りにされます。しかし、弱さのうちにこそ、キリストの力が現れるというのが、聖書の教えです。弱さが弱さで終わらない。終わらせないのが、キリストの恵みです。
今日の個所は十二使徒のリーダー、シモン・ペテロがイエス様に背いてしまうという一大事件について、深い神のみこころが示されているところです。
31節。「シモン、シモン」と名前を二回、繰り返されたのは、これからわたしが話すことをよく聞きなさい、と注意を促すためでしょう。「見なさい」も、同じ意味です。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」ペテロだけでなく、「あなたがた」弟子たち全員のことです。サタンは神に敵対する霊的な存在です。その願う所は、一人でも神の子どもたち、クリスチャンたちを滅びに誘うことです。神の愛する者たちを、一人でも失わせようとするのですから、大胆不敵です。そのサタンは、使徒たちを麦のようにふるいにかけることを神に願った。麦は刈り取った後、棒でたたいたりして脱穀して、それから殻と実を箕(み)やフォークで空中に放り上げ、風を利用して軽いもみ殻やわら屑を吹き飛ばし、重い麦粒だけを下に落とします。そして、最後にそれを網の張られたふるいに入れて、上下左右に揺さぶると、細かい土や小石などの異物が網の目から落ち、麦粒だけがふるいの中に残ります。その最後の不純物を網の目から落とし、純粋な麦だけを残す作業が、ここの「ふるいにかける」です。そのように、サタンは使徒たちを揺さぶって、網の目からこぼれ落ちるように、つまり使徒という職務から、また、あわよくば信仰者であることから、脱落させようとしたのです。
そしてそして、最初、エッと思うのは、そのサタンの願いを神が聞き届けたということです。どうして?と思います。同じようなことは、旧約聖書のヨブ記にも出てきます(ヨブ記1-2章)。ここから読み取れることは、まず、サタンは神の許可なしに、何でもかんでも、やりたい放題できるわけではないということ。サタンも完全に神のご支配の下にあります。どんな悲惨なことも、つらい経験も。どうして?と思いますが、しかしここに望みまた慰めがあります。神が許可したことなのだから、それは良い目的のために神が許可されたこと、良い結果をもたらすためであることが保証されているからです。サタンはその本性にふさわしく、悪い動機で、悪い結果を願って、使徒たちをふるいにかけます。サタンがやっていることは悪です。しかし、神は良い目的のために、それを許可します。しかし、サタンの願い通りにはなりません。かえって、サタンの願っていたこととは反対の結果になって、さらに神に対して怒りを激しくし、地団駄踏むことになりますが、ここでは、使徒たち全員が、サタンのふるいにかけられて、みな、イエス様を見捨てて、離れて行くこと、脱落することが許可されたということです。
サタンはふるいにかけるだけで、使徒たちの信仰そのものを直接、むりやり、どうこうすることはできません。サタンがどんなふるいにかけてきても、使徒たち自身の信仰が揺るぎないものであるなら、脱落することはないのです。ただ、この後の展開にみるような試練に見舞われると、彼らは耐えられなかった。弱く、もろいものであることが、明らかになったということです。私たちも、試練にあわせないように神の御手によって守られているから、このときの使徒たちのような醜態をさらさずに済んでいるということもあるのだと思います。「私たちを試みにあわせないで、…」との祈りを、主は聞いて下さっているのだと思います。
さて、サタンの願いは神に聞き届けられました。それでは、彼らはどうなるのか?サタンの手に落ちてしまうのでしょうか。32節。「あなたのために」もちろん、ほかの使徒たちのためにも祈られたのでしょうが、ここにはペテロのことが取り上げられます。十二使徒のリーダーであり、かつ、一番、派手に転ぶからでしょうか。普通なら、もう立ち上がることができないような転び方をしてしまうから、そんなペテロを名指して「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と。あなたが試みにあわないように祈りました、ではありません。あなたが試みに勝つように祈りました、でもない。彼は試みにあい、無様なまでに敗北して、打ちのめされるのです。でも、信仰がなくならないように、とイエス様は祈られたのです。信仰は神からの恵みが私たちのもとに通ってくるための管のようなものです。信仰があれば、神からの恵みを受け取り、それによって力を得て、また立ち上がることができる。信仰はいのちです。いのちがあれば、傷は癒され、また立ち上がることができるのです。イエス様は、その、信仰がなくならないように、と祈って下さったのです。
ちなみに、主の祈りの第六の祈願「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい。」について、ウェストミンスター大教理問答は次のように解説しています。これは、私たちが試みにあわないように守られること、もし試みにあっても、御霊によって、それに打ち勝つことができること、そして、もし試みに敗れたとしても、そこから立ち直り、それをきよく用いることができることを祈るようにと教えるものだと。試みに敗れたら、終わりではない。もし敗れたとしても、そこから立ち上がることが、主が望んでおられることです。敗れたら、それでお前はダメだ、役立たずだ、と切り捨てるのではありません。自分で勝手にあきらめてしまうのでなく、主が望んでおられるように、何度でも立ち上がるべきです。
そして、その先には使命があります。「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」「立ち直ったら」と、ペテロが立ち上がることがすでに前提となっています。イエス様の祈りは100%、完全にその通りになりますから。イエス様が祈って下さったら、それは必ずその通りになるのです。それで立ち直ったら、立ち直った者の使命があります。いったん、砕かれて、そして立ち直った者ならではの使命があります。「兄弟たちを力づけてやりなさい。」いったん、砕かれたからこそ、同じように砕かれている魂を力づけることができる。いかに神が、キリストが、自分をあわれんで下さり、癒やし、立ち直らせてくださったか。神の赦しはどれほど深いか。神の愛はどれほど深いか。自分が体験したこととして、語ることができます。同じ境遇、同じ状態を経験しているからこそ、力づけることができます。深い嘆きや落胆の中にいる人には、ときに、どんな言葉も、どんな助けも、役に立たないことがあります。しかし、同じ経験をした人、同じ境遇の人がいると、その人がそばにいてくれるだけで、大きな慰めとなり、力となり、励ましとなるものです。語る側の問題だけでなく、聞く側、受け取る側にとっても、どういう人が語るかは、大きな違いをもたらします。ペテロの挫折、イエス様のとりなしがなかったら、立ち直れなかったであろう深い挫折を神が許可されたのは、ペテロにそのことを経験させて、福音を必要としている、真に砕かれた人、自分に絶望して、神のあわれみにのみ、望みを置いている人に、福音を伝え、それらの人たちを「力づけて」あげるためだったのだと思います。それにふさわしい器として、整えるためだったのだと思います。陶器師である神が、みこころのままに、ペテロをそのように作り上げて下さった。そのようにしてペテロが神の恵みの栄光をあらわす器とされたのだと思います。サタンは悪を計りましたが、神ははるかに広く深い知恵をもって、それを許可しておられたのです。
ところで、これを聞いたシモン。このときはまだ血気盛んでした。これは、イエス様と言えども、聞き捨てならぬ、と。33節。前の21節で、この食卓に着いている者の一人が、わたしを裏切ります、と言われていたので、まるで自分がその、イエス様を裏切る者だと言われたように思ったのでしょうか。顔を真っ赤にして、頭から湯気を出して、啖呵を切った。「イエス様とご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」実際、このときのペテロは、本当にそう思っていたでしょう。嘘をついているつもりはなかったと思います。しかし、頭の中で思い描いている自分と、実際の自分は得てして、大きく違うものです。イエス様は、すべてをお見通しでした。
34節。「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言ったペテロが、一晩のうちに、三度も、主を知らないと言ってしまう。一度ならず、二度、三度までも。もはや、何の言い訳もできないほど、完全にイエス様を裏切ってしまいます。キリストを宣べ伝えるべき使徒が、キリストを知らないとしらを切ってしまうなどとは、決して赦されることではありません。普通なら、使徒失格です。しかし、そんなペテロをこそ、福音を宣べ伝える使徒としてお立てになり、兄弟を力づけてあげなさい、との使命を与えられるのがイエス様なのです。
「 天の力に 癒やし得ぬ 悲しみは 地にあらじ 」 新聖歌 443番
最後に今日はもう一度、イエス様が「あなたのために…祈りました」とペテロに言われたことばに、心をとめたいと思います。ペテロが、なぜ、再び立ち上がることができたのか。それは、彼に不屈の精神があったからではなく、イエス様が彼のために祈って下さったからです。信仰を持つことができたのも、イエス様が私たちに信仰を与えてくださったからであり、途中で信仰を失ってしまうことなく、支えられて、−途中、転んだり、一時的に迷い出てしまうことがあったとしても、−完成へと至り、永遠の神の国に入れて頂けるのも、イエス様が私たちのために祈っておられるからです。私たちは力尽きて、グリップする力がなくなったとしても、イエス様が私たちを握って下さっているので、私たちの救いは保証されています。イエス様は信仰の創始者であり、完成者であられます(ヘブル書12:2)。
そして、イエス様の祈りは、私たちがまったく試練にあわないようにとか、試みにすべて勝利するように、ではなく、たとえどんな状況に、どんな状態になったとしても、「信仰がなくならないように」祈って下さっている。そこに深い意味がありました。打ち砕かれる経験を通らされても、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、その挫折も無駄・無意味ではなく、きよい目的のために用いられるために、神が許されたものです。
イエス様は、ペテロのためだけに祈っておられるのではありません。聖徳太子は10人一度に言ってきたのも聞き分けたと言いますが、イエス様は世界中のクリスチャン、一人ひとりが置かれている状況を把握しておられて、祈りの声に耳を傾け、そして、一人ひとりの名を挙げて、その人のために祈って下さっています。イエス様に祈られているのです。私たちは。祈ったことは100%、必ずその通りになるイエス様が、「あなたのために祈りました」と言ってくださるのです。たとえ、私たちの思い通りにすべてのことが運んでいなかったとしても、山にも谷にも、晴れの日も嵐の日も、打ちひしがれているときも、落胆しているときも、イエス様は私たち一人ひとりのために祈って下さっています。そこに慰め、希望、また支えがあります。そしてその経験はきよい目的のために、用いられます。