先週はイエス様が聖餐式を制定された箇所を見ました。イエス様はパンを裂いて弟子たちに与えて言われました。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体です。」また杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」イエス様は、この翌日、私たちのために、十字架上でご自分の肉を裂かれ、血を流されます。それによって信じる者たちが、罪の赦しを与えられ、神との関係が回復して、神とともに永遠の、真のいのちを生きるようになるためです。
逆に言えば、私たちが神との関係を回復するためには、生ける神の御子イエス様に、私たちの罪を背負って身代わりに死んでいただく必要があったということです。人はみな、それほどの罪ある者ということです。ところが、このときの弟子たちは、その事がまったくわかっていませんでした。
24節。自分はイエス様の身代わりの犠牲が必要な人間だと、本当にわかったら、誰が一番偉いか、などで争うことはしない、いやできないでしょう。誰が一番偉いか、どころの話ではない。どうしたら罪から、滅びから、救われることができるかをこそ、求めるべきでした。そして何より、イエス様は彼らのためにご自分の肉を裂かれ、血を流される、その十字架に向かっておられるというのに、弟子たちの眼中にはイエス様のことがない。イエス様はこれまでに何度か、ご自分が苦しみを受けられることを予告して来ましたが、それは右から左。彼らは勝手に、イエス様がこの世的な王、ダビデ王の再来のような、イスラエルに栄光をもたらす王だと思い込んで、自分たちはその王の側近として、どのポストにつかせて頂けるか、そんなことで頭がいっぱいでした。向いている方向が正反対。身体は近くにありましたが、心は遠く離れていました。
しかし、そんな彼らにイエス様は優しく教え悟されます。25-27節。この世の王や権威を持つ者のあり方と、教会のそれとが対比されています。25節「人々を支配し」は力づくで従わせること。「守護者」とは、治安を維持し、外敵から守って、民を保護する者のこと。それで、王は自らを「守護者」と呼ばせて、民衆にあがめさせていたのです。しかしイエス様は使徒たちに−これから教会を、神から委ねられた権威をもって治めることになる使徒たちに−あなたがたは、そうであってはならないと言われました。「誰が一番偉いか」との議論に熱を上げる彼らに、一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい、つまり、仕える者でありなさいと諭しました。「上に立つ人」主は「上に立つ人」の存在自体を否定しません。使徒たちは実際、上に立つ立場です。ただ、イエス様が治める神の国、教会では、上に立つ人は、給仕する者のようになるように、と心構えを説かれるのです。聖餐式の時に、長老さん方がパンと杯を一人ひとりに配って給仕しているのも、これにかなっていることです。なぜ、そうするのかと言えば、神の国で一番偉い方、一番上に立つ方、王であられるイエス様が、彼らの間で給仕する者のようにしておられるからです。ヨハネ伝では、最後の晩餐のときに、イエス様が弟子たちの足元に身を低くして、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭いて下さった場面があります。そして「主であり、師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」と言われました(ヨハネ13:14)。「俺の方が上だ」「いや、我が輩だ」とマウントの取り合いに夢中になるのでなく、互いに他の人の足元に身を低くして、仕える心であるように。
使徒たちは、このときのイエス様の教えに従って、のちに初代教会で、やもめたちの食糧の配給のために人々と一緒になって仕えていたのでしょう。しかしその数が多くなってからは、使徒たちは「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:2-16)と言って、食糧の配給のためには執事たちを選んで任命し、使徒たちは祈りとみことばによって人々に仕えることに専念しました。使徒たちが全部のことに関わってると、体がいくつあっても足りないので、役割分担をしたわけです。だからと言って、使徒たちが人々に仕えないで偉そうにしているというのではなくて、使徒たちは祈りとみことばによって主に仕え、人々に仕えていたわけです。大切なのは、君臨したり、あがめられようとする心ではなく、プライドなどは十字架につけて、イエス様にならって仕える心、仕える意識を持つことです。
それからもう一つ、やがて教会を治める使徒たちに必要な心構えがありました。28-29節。イエス様は、福音を宣べ伝えて旅をして、枕するところもなかったり、ユダヤ当局からは敵視されたりしました。またイエス様の教えにつまずいて離れ去った者も多くいました(ヨハネ6:66)。しかし、使徒たちはこの時に至るまで、イエス様から離れず、共にい続けました。ここで「踏みとどまってくれた」とイエス様が弟子たちに感謝するようなニュアンスに訳しています。手元にある他の日本語訳の聖書もすべて「…くれた」と訳していますが、元のギリシャ語でも英語訳でも、単に「踏みとどまった」です。つまり、彼らがさまざまな試練を通じてずっとイエス様のもとにとどまったという事実を言っているわけです。それはもちろん、彼ら自身の意志でそうしたのですが、実際はそれは神の恵みによって、支えられていたからです。そのことを示すかのように、次回見る31節以下に、ペテロがサタンの試みにあって、つまずくこと(イエス様を知らないと言ってしまうこと)、しかしイエス様がペテロのために信仰がなくならないように祈ってくれたおかげで、彼が立ち直ることができる、ということが記されます。つまり、使徒たちがここまで数々の試練の中でもイエス様から離れずについて来たのは、彼らの力とか立派さのゆえではなく、神の選びによることであり、恵みによることなのです。なので、ここは、彼らがイエス様について来ただけの力があるから、29節で、あなたがたに王権を委ねるというのではなく、彼らがイエス様のもとにとどまっているという事実のゆえに、彼らに王権を委ねるということなのだと思います。ですから、彼らもイエス様から離れたら、王権は取り上げられる。イエス様から離れて、彼ら自身が王となって勝手な権力を振りかざすことはできない。彼らはイエス様のもとにとどまっている限りにおいて、王権を委ねられるのです。
そのことは29節にも読み取ることができます。「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。」ヨハネの福音書には、イエス様は御父がしておられるのを見て、その通りに行なうこと以外に何もできない、すべて父がなさることを、自分も同様に行うと仰っています。そして父は誰をも裁かず、すべての裁きを自分に委ねられたと言われました(ヨハネ5:19,22)。御子が御父から離れて勝手なことをするのでなく、御父のみこころの通りに行なうので、御父は御子にすべての裁きを委ねられた。それと同じように、イエス様から離れず、どんなときにもとどまり続ける限りにおいて、使徒たちに王権を委ねるというつながりです。それで、実際に、初代教会において使徒たちは全教会に対する権威を与えられていました。教会は「使徒たちと預言者たちという土台の上に建てられていて…」とある通りです(エペソ2:20)。これは使徒たちの教えによって、教会が建て上げられるということです。また新約聖書はほとんど使徒たちによって書かれたものです。この聖書の上に教会は建て上げられています。聖書からはずれて、あるいは反して、何か言っても、それは神の御前には何ら権威も正当性もありません。
中世のカトリック教会は組織が巨大化して、それこそ世俗の王のような権威を持ちましたが、真理からはずれて偽りの教えを次々と作り出し、道徳的にも堕落腐敗してしまいました。それで宗教改革者たちは、声をあげたわけです。当時のカトリック教会は彼らを迫害し、神に逆らう、呪われた者と脅しましたが、彼らは真理から逸脱した教えや威嚇には、何の権威も力もないと言って彼らを恐れませんでした。マルチン・ルターの有名なエピソードがあります。彼は免罪符などの、カトリック教会の誤りを聖書から示した著作を出版していたため、帝国議会に召喚されて、それらの著作の撤回を迫られました。それに対して、彼は聖書や理性によって自説の誤りが証明されない限りは、撤回することはできないと答え、最後に「私はここに立つ。私はほかに、どうすることもできない。神よ。私をお助けください。アーメン。」と言ったとされます。教会の権威も、キリストにとどまっている限りにおいて、真理にとどまっている限りにおいて、正当なものであって、そこから逸脱してしまったら、権威の裏付けを失うことになります。聖書が上か、教会が上かと言ったら、聖書が上です。
しかしイエス様に従う道は、ときに険しいものです。28節「わたしのさまざまな試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた」という言葉には、イエス様のもとにとどまることは、試練にあうことも避けられないということも暗示されています。彼らがゆだねられる、キリストの王権とは、そのような王権ということです。この世の王様のようなキンキラキンの生活をもたらす王権ではなく、試練をもたらす王権。イエス様がさまざまな試練にあわれたように、使徒たちも、ユダヤ人当局者たちから激しい迫害を受け、福音を宣教するために当時の危険な旅をし、そして使徒たちはほとんど、殉教したと伝えられます。中世カトリック教会は富み、教皇は世俗の王のような生活を送っていたようですが、使徒たちは地上では枕するところもなく、投獄され、石を投げられ…と苦難の生涯でした。そんな彼らをイエス様は励まさずにはいられません。
30節。「そうして」イエス様が言われたような王権―人に仕え、イエス様のもとにとどまり続けることによる王権−のために労苦したなら、「わたしの国でわたしの食卓に着いて飲んだり食べたりし」世の終わりに実現する神の国で、イエス様の食卓に着かせていただける。御国のために労苦した者を、イエス様ご自身がいたわってあげずにはいられない、そんなイエス様のお心がうかがわれます。御使いたちに接待させるのでなく、イエス様自らが彼らをいたわってくださるというのです。もちろん、これは使徒たちに限ったことではなく、だれでも試練の中でイエス様のもとにとどまり続けた人のために用意されています。
とはいえ、ずっと永遠に飲み食いばかりしているわけではありません。「王座に着いて、イスラエルの十二部族を治めるのです。」ここの「イスラエルの十二部族」は神の民全体を表すとされます。私たちが世の終わりに復活して入る次の世では、これも使徒たちに限らず、キリストとともに「治める」という務めがあるようです(ルカ19:17,19、第一コリント6:2、第二テモテ2:12、黙示録5:10、20:4,6)。神の国では悪人がいませんから、治める務めはストレスではなく、喜びであり、感謝なことなのだと思います。
「 永遠の安きを 待ち望みて 」 新聖歌 143番
今日の週報には、聖餐式の式文から祈りの言葉の一部を載せていますが、そこにも、やがてイエス様の食卓に着く夢のような日を励みにして、今の世を信仰者として生きるという、信仰者の基本的な姿勢が書かれています。私たちのために自ら十字架にかかって下さるほど私たちを愛しておられるお方、生ける神の御子イエス様のテーブルに招かれているのです。目もくらむような夢のようなその日が、いつか現実に来るのです。その日に励まされて、互いに仕えあい、時に試練にあっても聖霊によってキリストのみことばに立って、イエス様にお従いする歩みをまっとうしましょう。