礼拝説教要旨 2026年10月18日

あなたがたのために

(ルカ 22:14-23)

今日の個所は、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれるところです。つまり、イエス様が十字架にかかられる前の晩の食事の時のことです。その食事は普通の食事ではなく、「過越の食事」と言われるものでした。前回、「過越の祭り」について説明しましたが、その日の夜に食べられる食事です。「過越の祭り」とは、一言で言えば、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を、その苦しみと滅びの状態から、神が全能の御力をもって救い出されたことを記念するための祭りでした。丸腰の、男だけで60万人もの大群衆を、強力な軍隊を持つエジプトの支配から解放することは、人間的には不可能なことでしたが、神が数々の大いなる奇跡をもって、彼らのためにそのことをして下さった。その神の大いなる救いのみわざを子々孫々に伝えて、主なる神に感謝をささげ、礼拝する。そのようなものでした。そして、それはただ過去の出来事を覚えるだけでなく、神はどんな状況からでも私たちを助け出すことがおできになる、という信仰と希望を育むものでもありました。

そしてその旧約の時代の過越の祭りに代えて、主が新約の時代の聖餐式を制定されたのが今日の個所です。旧約の定めから新約の定めへと移行する大きな転換点となっています。そしてこの聖餐式の制定の言葉には、イエス様の、私たちに対する愛があふれています。

14節。過越の食事は、日没後に行なわれることになっていたので、晩餐ということになります。当時の過越の食事のプログラムは、正確にはわからないのですが、ある本には次の説が紹介されています。�@家族や友人たち一同が集まって食卓に着く。�A食べ物の感謝が祈られた後で、水で薄められた最初のぶどう酒を一杯飲む。�Bエジプトでの苦しみを思うために苦菜を食べる。�C父親もしくはテーブルの長が過越の物語を語る。�D全員で詩篇113、114篇を歌い、手を洗ってから二回目のぶどう酒を飲む。�E過越の食事を取る。メニューは子羊と種なしパン。�F食事が終わると、三回目の杯が回される。�G最後に詩篇115篇から118篇を歌ったのち、四回目のぶどう酒を飲む。以上。福音書はこれらすべてではなく、部分的に取り上げて記録しているようです。

そして、このプログラムにはありませんが、過越の食事が始まる前に、イエス様はこの過越の食事に臨むご自分の思いを語られました。15節。「苦しみを受ける前に」とは、十字架にかけられる前にということ。それ以外にもむち打たれたり、平手打ちされたり、あざけられたりとありましたが、中心は、私たちの罪のために身代わりに十字架上で死なれることです。両手足を太い釘で突き刺されて、体重がかかって肉が引き裂かれるという苦しみ。そして私たちの身代わりに、父なる神から御怒りを受け、断ち切られるという、私たちには想像もできない苦しみ。その苦しみを受ける前に、イエス様は弟子たちと一緒に、この過越の食事をすることを切に願っていたというのです。え?と耳を疑います。イエス様、「恐れていた」の間違いではありませんか?と言いたくなります。この過越の食事をするということは、ご自分が苦しみを受けるときが、もうすぐ目の前に来ているということです。ご自分が明日、十字架にかけられるということです。この日が来ないように切に願っていた、というのなら、わかります。ところがイエス様は、この日が来るのを切に願っていたというのです。それも、「切に願っていた」と強調されています。なぜか。それは、ご自分が十字架の苦しみを受けることによって、私たちが罪赦され、罪と死の支配から救い出されて、神のもとに帰ることができ、永遠のいのちを与えられるようになるからです。私たちが滅びから救い出されるからです。イエス様の頭には、ご自分の身がどうなろうと、私たちを滅びから救い出すことしかなかったのでしょう。

そして16節。イエス様は十字架にかけられて、人の目には失敗者・敗残者のように見えますが、実はそうではなくて、やがて完成した神の国で弟子たちとともに過越の食事をする日が来ることを示されます(参考 マタイ26:29)。「過越が神の国において成就する」は、キリストによる救いのみわざが完成するという意味と思われます。その時まで、イエス様は過越の食事を決してなさらないという決意表明は、その時が来るまでに、まだ相当な時間があることを暗示しています。しかし、その時が来たら、過越の食事をなさる。神の国での過越の食事とは、キリストの救いのみわざを喜ぶ祝宴なのだろうと思います。なので、その、イエス様と共に食事をする時が用意されていることに励まされて、弟子たちに、福音宣教、教会建設のために労苦するように、とのメッセージなのでしょう。

そして17節から過越の食事に入ります。17,18節は先のプログラム�A食べ物の感謝の祈りをささげた後で、最初のぶどう酒を飲むところです。17-18節。18節は先の16節と同じです。

次は、聖餐式で聞き流れた言葉が含まれています。19-20節。19節は先のプログラムの�E食事。20節は�F食事の後に飲む三回目のぶどう酒です。パンはイエス様が十字架で引き裂かれたお体を表します。「これを裂き」は、イエス様のお体が十字架上で引き裂かれたことを表わします。それがパンと言われているのは、いのちを養うものだからでしょう。私たちはパン、つまり食事をとらないと死んでしまいます。パンはいのちを象徴しています。そのように、十字架にかかられたイエス様のお体は、信じる者にいのちを与えます。イエス様は、私の罪のために身代わりに刑罰を受けて、十字架にかかって下さったと信じるときに、私の罪が赦され、取り除かれて、神から真のいのちが与えられます。罪は死をもたらすものです。罪はいのちの源である神と私たちの間に断絶をもたらすものだからです。その罪を、イエス様が私の身代わりに背負って、十字架で死んで下さったので、信じる者は罪を赦され、神との関係が回復し、永遠のいのちに生きる者とされました。ですから、聖餐式のたびに、「わたしを覚えて、これを行いなさい」とイエス様が語りかけておられ、私たちはそのイエス様の招きに応えて、イエス様の十字架のみわざとご愛を覚えて、聖餐式を行います。

20節の杯、ぶどう酒は、イエス様が十字架で、私たちの身代わりに流された血を表します。聖書では、血は命を表します(レビ17:11,14)。そして血を流すことなしには、罪の赦しはないと言われています(ヘブル9:22)。それは先に言ったように、罪は死をもたらすものだから、誰かがその死を引き受けなければならないからです。そして、その死を、イエス様が私たちのために、自ら進んで、身代わりを引き受けて下さったということです。そして「あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約」と言われています。古い契約(旧約)は、羊や牛などの動物の血が流されてきましたが、本当は、そんな動物の血に人の罪を取り除く価値も力もありません。それらはすべて、真に世の罪を取り除く神の子羊キリストを指し示すものでした。ですから、動物の血を流すことによって結ばれた、古い時代の契約−神がイスラエルの民を受け入れ、彼らが神の民となり、神は彼らの神となって下さるという契約−に代わって、今や、本体である神の御子キリストが、ご自分のきよい血を流されることによって結ばれる新しい契約が結ばれるのです。

この新しい契約の大きな特徴は、私たちが神のみこころに従って、きよい生活を送るようになるために、神が私たちの心そのものを造り変えて下さる、新しくして下さるということです。古い契約は、〇〇すべし、△△してはならない、と石に刻まれた律法を与えられましたが、人々は心が変わらなかったので、これを守ることができませんでした。それが、新しい契約では、その主のみこころをあらわす律法を、信じる人々の心の中に書き記すと言われています(ヘブル8:8-12)。これはただ暗記できるようにすると言う意味ではなくて、心が主のみこころに従って、造り変えられていく、新しくされていくということです。それは聖霊のみわざです。キリストが与えて下さる聖霊が私たちのうちに働いて、私たちを内側から、私たちの心そのものを造り変えて下さる。聖霊によらなければ、私たちには神のみこころにかなって歩むことはできません。ただし、誤解してはいけないのは、キリストを信じて聖霊を頂いたら、すぐに完全になるわけではなく、それは生涯かけて、何度でも悔い改めて、キリストにより頼んで立ち上がる信仰の歩みだということです。忍耐が必要です。前にも言いましたが霊のリハビリです。身体のリハビリでも、始めてすぐ次の日に飛んだり跳ねたりできません。最初のうちは痛かったり、転んだりしながら、それでも、途中でやめずに根気よく続けていけば、少しずつ、良くなっていきます。立てなかったのが、立てるようになり、一歩、歩けるようになり、1m、5m歩けるようになる。昨日までできなかったことが、できるようになるのは、うれしいものです。私たちの霊のリハビリも、同様です。それを可能にするのは、新しい契約で与えられる聖霊です。私たちの心を造り変えてくれる聖霊が欲しい人は、キリストを自分の救い主と信じることです。使徒2:38「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

さて、聖餐式の制定の場面に続けて、あのイスカリオテ・ユダのことに触れられます。21-23節。「わたしを裏切る者」がイスカリオテ・ユダ。イエス様と同じ食卓について、親しい交わりに入れて頂いているのに、イエス様を祭司長たちに売り渡した男。しかしそれは、たまたまユダという男の裏切りによって、イエス様が十字架にかけられたということではなく、22節「定められたとおり」とあるように、世界が始まる前から神がお定めになっていたことです。神の救いのご計画の一部です。しかしながら、だからと言って、ユダに責任がないのでなく、ユダは自分の欲に従って、自分の意志で、そうしたのです。ユダ自身はそうしたくないのに、ユダの意志に反して、強制的にそうさせられたのではありません。彼自身が選び取った行動です。ゆえにそれに対する責任を問われます。「人の子を裏切るその人はわざわいです」とは、その裁きのことを思って発せられた言葉です。人間の頭では理解できないことですが、聖書によると、神の定めでありつつ、人間が自分の意志で行った行動には責任を問われることが教えられています(参考 第一ペテロ2:8、特に第三版)。ですから、私たちが何か罪を犯してしまったとき、それを「神がそう定めていたからだ」と神に責任転嫁をすることは許されません。そういう時に私たちがすべきは、キリストの十字架の前にひれふして罪の赦しを信じ、聖霊の助けが与えられることを信じて、悔い改めて、再び立ち上がることです。そのためにこそ、イエス様は十字架にかかって下さったのですから。

「 主は命を 与えませり 」 新聖歌 102番

聖餐式の司式をするとき、19,20節のようなイエス様の言葉を語ります。あるとき、ふと、自分がイエス様の立場だったら、どういう思いでパンと杯を与えるだろう、と思いました。もし、私が目の前の誰かを救うために、明日、十字架につけられるとします。その時に、目の前の人に「これはあなたのために与えられる私のからだです。」と言って、パンを与える。また杯を渡す。目の前の人は何のことか、まだわからないけれども、自分はわかっている。恐れ多いことですが、イエス様の御思いの、ほんの一端でも感じられるでしょうか。

そんなことも思って、最後に覚えたいのは、イエス様から私たち一人ひとりへの語りかけです。19節「あなたがたのために与えられる、わたしのからだです」20節「あなたがたのために流される、私の血…。」あなたがたのために、あなたがたのために、と繰り返されたイエス様のみことばを、自分へのイエス様からの呼びかけのことばとして、受け取りましょう。イエス様は誰のために、何のために、十字架にかかられ、肉を裂かれ、血を流されたのか。そのイエス様の御愛を正面から受け取らせて頂きましょう。

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