2026年10月11日 所沢聖書教会 柳吉弥太師
ローマ人への手紙 6章15〜23節
いつものように、偶数月の第二週、私の礼拝説教の当番が回ってきます。毎回、今までのことを少し振り返りながら、聖書の言葉に目を向けさせていただいています。このところ、私が担当するときに一貫して、私自身が神様から教えられ、また気になっていることに触れています。
私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いの御業を信じています。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった。私の罪の赦しのために、身代わりに死んでくださった。そのことを信じて、クリスチャンとして歩んでいます。その確かな救いを喜び、感謝して、信仰生活を送っているのですけれども、それでも、その素晴らしい救いをきちんと理解しているかどうかということに関しては、結構揺れ動いて、正しくは理解できていないな、と気づかされるわけですね。
正しく理解できていない。それは一体何なのかと思い返すときに、生けるまことの神様が天と地をお造りになり、私たち人間は神様によっていのちを与えられ、生かされているはずだということがあります。ところが、最初の人、アダムとエバが神様の言いつけに背いて、罪を犯してしまった。そのときから、神様との正しい関係は壊れてしまった。その壊れてしまった事実を、果たしてきちんと受け止めているかどうかが、気になって仕方がないんですね。
皆さんもお分かりだと思いますけれども、壊れてしまった結果、何が起こったかということを、実は創世記は非常に明確に教えてくれています。創世記を初めから読んでいくと、三章で、人は神様の言いつけに背いています。四章に行くと、背いた人間が何をしたかが、もう冒頭ではっきりと書かれています。アダムとエバの息子二人、カインとアベルがいて、その兄弟がけんかをするというか、兄が弟を殺してしまうという出来事になっています。
この聖書の記述を、単なる神話であるとか、おとぎ話であるとか、単なる話として聞いてしまう人が、世の中には大勢いるかもしれません。でも、私たちは、聖書は人間の真実を語ってくださっているということを知っているはずです。教えられて、そう信じています。
罪の結果、何が起こったか。殺人なんですね。人が人を殺してしまう。単純なことですけれども、罪の結果がどういうところに現れているかを、聖書は本当にはっきりと教えてくれていると思うんですね。その後、全人類がどのようにして今日まで至っているかを考えると、それこそ人を殺して、単なる個人的な争いだけでなく、国と国の争い、民族と民族の争い、戦争を繰り返すという形で歴史を刻んでいる。そのことを私たちは忘れてはならないと思います。
そうした中で、私自身もいろいろと気づかされ、教えられながら、神様を知っている人、神様を信じている人と、そうでない人との違いが確かにあるんだということを、これもまた忘れてはならないと気づかされるんですね。
長老教会の清水先生から、私はいろいろなことを教えられています。その一つとして、ここ数年の間に、「これだ」という、ものすごく大事なヒントを教えられました。以前にも少し触れましたけれども、私は花を見て、あまり「きれいだな」とか、「これは何の花だな」とか、関心を持たない人間なので、それ以上のことはあまり言えないんですけれども、先生はこうおっしゃったんですね。
「この花、きれいですね」と、誰もが思うでしょう。「この花はきれいです。とてもきれいです」と言うことができたとしても、天地の造り主なる神様がこの花を造って、咲かせてくださっていると気づいて「きれいですね」と言うのと、神様はいないという前提のもとに「花はきれいですね」と言うのとは、全然違うんですよ、と言われたんですね。
私には、その話はもう絶対に忘れてはいけないと、自分に言い聞かせています。詩篇の中に二回出てくるんですけれども、そのうちの一つ、詩篇十四篇の一節に、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない」と言っているんですね。
「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」。花を見て、神様はいないという前提のもとに「この花はきれいですね」と、いくら花をめでても、それは少し違うんですよ、と先生がおっしゃったことを、私は本当に忘れないようにしようと思いました。
それでも、道を歩いていて、花になかなか気づかないで通り過ぎてしまう、そんな私なんですけれども、神様がおられて、この世界が出来上がり、成り立っている。そして私たちは、その神様に生かされている。それをどれだけ心に留めているかということを、決して忘れないようにしたいと思う。そんなことを教えられました。
そう考えていくと、聖書を学び、救いの恵みがどんなに素晴らしいものかを心に留める、その中で鍵になることは、私たち人間の、神様に対する罪というものを、どのように理解しているかということなんだと思います。神の前に罪ある私たち人間だということを、どれだけしっかり覚えているか。そして、その罪の問題は、自分では絶対に解決しきれないものだということです。
自分では絶対に解決しきれない罪の問題を、イエス様が十字架の上で身代わりの死を遂げてくださることによって、罪の赦しを与えてくださった。そのことをどれだけしっかり覚えているか。罪を赦された者として、この地上の日々を生きることが、どれほど幸いなことなのか。それを忘れないようにしたいと思うわけです。
今日も、週報の中に記された大切な二つの戒めを読みました。「主は私たちの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これが第一の戒めで、第二の戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。これらよりも重要な命令は、ほかにありません」と言われていました。
神を愛し、また隣人を自分自身のように愛する。それが大事な戒めなんだということを、私たちは学んでいます。ところが、自分自身の内側を見るときに、果たして神を愛する愛が、十分に私にはあるだろうか。あるいは、隣人を愛する愛が自分にあるだろうか。そう気づかされるときに、私たちには愛がないという事実が、繰り返し問い詰められることがある。そんな現実を私たちは生きています。
それでも、神を愛し、隣人を愛しなさいと教えられ、その戒めを守ろうとして歩む中で、なかなか不完全なままで、実はもやもやすることがあるはずなんですよね。
最近、有名人の訃報がテレビやラジオ、新聞で報じられる中で、皆さんも気づかれたと思いますけれども、美輪明宏さんという、シャンソン歌手だった方についてのニュースがありました。その方は長崎で被爆していて、生涯、戦争に反対し、被爆の事実を忘れないで受け止めながら生きていこうとしていた。そして、その方の決まり文句のような言葉に、「愛があれば戦争なんて起きません」という言葉があって、そう言い続けたと報じられていました。
「愛があれば戦争なんて起きません」。それは真実だと思う。でも、現実には戦争はやまない。何なのだろう、という戸惑いの中に、私たちは閉じ込められてしまうんですけれども、考えさせられたのは、やはり人間の一番の問題です。
神様に造られ、良きものとして造られたはずの人間が、神に背いたために、一番大事な戒めを全うできない部分が現実にある。私たちクリスチャンは、そのような不完全な者でありながらも、イエス様の十字架によって罪の赦しを与えられています。自分には愛がないけれども、神様からいただいた愛をもって、人を愛し、神様を愛することのできる者に造り変えられている。その事実を、もっと覚えて感謝し、この地上の日々を生きることが大事なんじゃないかと、そんなことを気づかされます。
そこまで分かっても、まだ、この地上にいる限り不完全だという事実を思い知らされるんですけれども、パウロという人は、神様が成してくださった救いの御業の確かさ、完全さを理解するとともに、イエス・キリストを信じた者が、なおこの地上では不完全なまま、いろいろなことにぶつかりながら、苦闘しながら、この地上の生涯を生かされている。そのことを踏まえて、この手紙を書いているということに気づかされます。
ですから、イエス・キリストを信じて義と認められ、罪を赦されたクリスチャンが、どういうふうにこの地上を生きたらよいのか。神様から教えられ、神様に助けられながら地上の日々を生きることが、どんなに大事かを覚えなければならないんだと思います。
前回、私たちクリスチャンは、キリストにあって生きる者、キリストと共に罪に死んだので、キリストと共に新しいいのちに生きる者となった。既にそうさせられているんだということを覚えたい、と学びました。キリストにあって新しいいのちに生きる者となった。そのクリスチャンであるしるしとして、洗礼、バプテスマというものがある。
洗礼は、キリストと結合し、キリストと一つにされたことのしるしです。罪に死んで、新しいいのちに生きる、その両面を表すしるしだということを、パウロは教えようとしていた。そのことに前回触れました。
これについても、少しおまけの話になりますけれども、私たちの長老教会は、頭の上に水を注ぐ、そういう形で水を使った洗礼式をします。でも、教会によっては、それは洗礼じゃない、特にバプテスマではないと強調するところがあります。
バプテスト教会では、講壇の後ろ辺りに、お風呂と言ったら叱られるんですけれども、洗礼槽という、水をためるものがあって、バプテスマの式をするときにはそこを開けて、水かお湯を張る。その中に牧師が入り、洗礼を受ける人も入って、水の中に全身を浸し、そこから出る。その行為を通して、罪に死んで、キリストにある新しいいのちに生きるということを、身をもって経験する。これでなければ洗礼ではない、バプテスマではないという考えの強い教会が、実はあるんですね。
長老教会で頭に水を注ぐ洗礼を受けて、バプテスト教会に移ると、前の教会のあれは洗礼ではないから、バプテスマの式をもう一度やりましょうと、やらなければいけないケースが現実にあるようです。
私はその経験がないんですけれども、私と一緒に洗礼を受けた姉妹は、そういうバプテスマについて強い考えのある教会に移られたので、もう一度受けたということがありました。ご本人は悩んだかな、どうしたかなと、すごく気になったんですけれども。
水に全身を浸して、そこから出てくることによって、罪に死んで、新しいいのちに生きるということが分かりやすく経験できる。では、どうでしょう。私が長老教会で教えられたのは、私たちが聖書によって教えられる信仰は、そういう形に縛られない信仰だということでした。
でも、聖書を読んでいると、水を使う儀式であることは間違いないと分かります。水を注ぐか、あるいは振りかけるか、いずれにしても、水を通して罪のきよめを理解し、キリストにあって新しいいのちに生きる者になったということを理解する。パウロは、この手紙で形のことは言っていません。でも、そこにどのような意味があるかを、一生懸命教えようとして、ローマ人への手紙を書いています。
キリストにあって生きる者は、もはや律法の下にはない。恵みの下にある。まさに、神様の恵みの御手のもとにあって、クリスチャンは生かされている。そのクリスチャンは、罪との戦いはあるとしても、罪に支配されることは決してない。それを覚えてくださいというわけです。
私もこの学びを繰り返す中で、罪に対してぼんやりしていてはいけないし、罪から離れなければいけない。罪との戦いはある。また罪を犯してしまう弱さはあるけれども、罪に支配されることのない、そういう神様の御手の中、支配の中に移されている。それを、もっともっと理解したい、理解させていただきたいと教えられています。
恵みによる救い、恵みによって罪を赦され、キリストと共に生きるクリスチャンの歩みが、どんなに幸いなものか。パウロはそれを理解し、人々に教えようとしていました。ところが、「もう罪に支配されることはない」ということだけを取って、反論する人がいたということになります。
「では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか」。もう罪に支配されることのないところに移されているんだから、罪を犯したとしても何の心配も要らないではないか。むしろ罪を犯そうではないか。そう言い出す人が、実はいたということです。
要するに、神様の絶大な恵みを誤解してしまって、「これからは罪を犯しても大丈夫なんだ。恵みの下にあるから、何をしても安心なんだ」と言って、放縦な生き方さえもよしとする人々が現れていたということです。
行いによって義とされる、そういう救いの道を求めようとする人たちのことは、「律法主義」という言葉で言い表せるんですけれども、パウロはその律法主義を退けました。しかし同時に、「何をしたって、もう大丈夫なんだ」と言わんばかりの「無律法主義」、そういう考えをする人たちも現れて、パウロは両方の人と戦わなければならなかったわけです。
この六章十五節だけでなく、ほかのところでも、いろいろな形で、パウロの周囲に「神様が救ってくださったから、どんな悪をしたって大丈夫なんだ」と言わんばかりの人がいました。そして、パウロを非難する人は、「パウロは、律法を守らなくていいという、とんでもない教えを広めているんだ」と非難する。もう一方では、「恵みの下にあるから、もう守らなくてもいいんだ。罪を犯したとしても大丈夫なんだ」と考える。
パウロは、その人たちに「決してそんなことはありません」と、きっぱりと退けます。私たちが覚えておかなければならないことは、イエス様が十字架で身代わりの死を遂げてくださったことによって罪を赦してくださる、その罪の赦しは完全だということです。そして、赦された私たちが、罪の中に生き続けるということはあり得ない。そのことも覚えておきたいと思うんです。
完全に解き放たれた。そのことを十六節以下で、「あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります」と言っています。
かつては罪の奴隷であった。でも今は、従順の奴隷だと言うんですね。この従順の奴隷について、また別の言い方で、義の奴隷とも言っています。十七、十八節で、「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました」と。
罪の奴隷から、今は従順の奴隷、あるいは義の奴隷、さらには神の奴隷となっている。「奴隷」という立場を例に挙げながら、人々に「主人が変わったんですよ。生き方の大変化、大転換が、実は起こっているんだ」と告げています。
私自身も、「奴隷」という言葉は、国語の漢字や意味の試験に出れば、どういう人なのかを書くことはできると思います。でも、奴隷の立場がどんなに悲惨だったかということは、なかなか分かっていないなと痛感させられます。
奴隷という立場にあるとき、どのような主人に出会い、どういう人に仕えているかによって、幸不幸がある。そのことに気づかされるんですけれども、私たちが罪の奴隷であった状態が、どれほど悲惨だったかは、ときどき立ち止まって考えなければいけないと思うんですね。
でも、その罪の奴隷の状態から解き放たれた。罪の赦しというのは罪からの解放だ。そして、神様の前に義と認められる。その大転換を、もっともっと実感しながら聖書を読むことは大事だなと思います。
パウロは、赦された者の歩みは、まさに罪から解き放たれているんだと教えています。罪の束縛の中ではなく、神様に喜ばれる者としての歩みが始まっている。そのことを、きよくされる、聖い者とされる日々を生きるように変わった、と言っています。神様は私たちを、そういうふうに生きる者に変えてくださっているんだということです。
十九節には、「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」とあります。
「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」。これはどういう意味なのか、あるときには何となく分かって、またよく分からなくなるような言い方なんですけれども、ある意味で、聞いている人たちの物分かりの弱さ、物分かりの悪さのようなことを考えながら、「あなたがたに分かる言葉で、私は今、言っているんですよ」という感じで理解してよいかと思います。
罪から解き放たれ、神様にあって生きる者になったというのは、罪の奴隷の状態から、神様に従う従順の奴隷、義の奴隷、神の奴隷に変わっているんですよと、立場が変わったことを一生懸命言っている。そして、変わったあなたがたは、自分の手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさいと勧めているんです。
二十節には、「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました」とあります。これも、少し分かりにくい言葉なんですけれども、私たちは自分では、神様がよしとされる正しさに向かうことができなかった。それにもかかわらず、神様が解き放ってくださったことによって、神様が喜んでくださる一歩を踏み出せるように変えられている。
神様に心から服従する生き方が、クリスチャン一人一人には与えられているんだ。自分ではできないことを、できるようにさせられている。そのことに気づいたときに、私たちは神様に対する感謝をもって、この信仰生活を生きることができる。そういう者に変えられますよということなんですね。
これも、私が今教えられたことを簡単に言っているんですけれども、私自身が本当に神様によって変えていただき、神様に心から服従する思いで毎日歩めているかというと、なかなか完全には変えられない。まだもたもたしている自分がいると気づかされるので、自分でももやもやするんです。でも、神様が私たちを変えてくださった。自分にはできないことを、神様がさせてくださっている。それが分かると、感謝する心が生まれてくる。そこなんではないかと思うんですね。
私たちが人間として生きるとき、一人一人、いろいろな人生を歩んでいます。それぞれが個性豊かに生きることを許されています。でも、生けるまことの神様の前にどう生きているかが、神によって造られた人間として問われている。そのことを忘れないようにしたいんですね。
極端な言い方をすると、神によって造られた人間がどう生きるかというのは、神様に背いて生きる罪の奴隷なのか、それとも神様に従う義の奴隷なのか、この二つに一つだということも、やはり事実だと思うんですね。
先ほど言った、花を見て、この花を造られた神様がいらっしゃることを分かったうえで「花はきれいですね」と言うのと、神様とは全然関係なしに「花はきれいですね」と言うのとは全然違う。その違いは、やはりとても大きいと思うんですね。
神様の前にどう生きているか。神に背いたまま生きるのか、神様に従って生きるのか。そういう意味では、罪は単なる犯罪や過ち、また偽りや失敗というものとは違うということを覚えておきたいと思います。犯罪や過ちを含んではいるけれども、もっと大事なのは、神様に背いているか、背いていないかです。罪によって、人は神に背かせられている。そのことも、罪の奴隷としての事実です。
圧倒的な悪の支配力をもって、私たち人間に迫るのが罪だということです。そのような罪の奴隷であったということは、その罪の言いなりになっていたということなんですね。
「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました」。これも少し理解しにくい表現ですけれども、罪の奴隷であったとき、義については全く無頓着だった、と理解すると分かりやすいかなと、私は教えられて理解しています。義については全く思いが及ばず、義の脇を通り過ぎている。そういうことだったと思うんですね。
ですから、二十一節には、「では、そのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です」と言われています。そうだった者が、今では義の奴隷として、聖潔に進むことが可能とされている。イエス・キリストを信じて歩み始めた私たちが、自分をどのように理解するのか。パウロはそのことを、読者一人一人に気づかせようとしていたということです。
罪の奴隷であったとき、行き着くところは死だと言うんですね。先ほど交読したガラテヤ人への手紙で、御霊の実に触れられているところには、その反対の、罪の事実が挙げられています。あまり口にしたくないようなことが、挙げられているんですね。
「肉のわざは明らかです」とパウロは言って、「すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです」と言っています。
「そういった類のものです」というところでは、パウロは、もっといっぱい罪の事実、罪に支配された人間の現実を言いたかったんじゃないか。でも、この辺で止めておこうという感じで、「そういった類のものです」と言っている。
私たちは、ここに挙げられている淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心などについて、自分はほとんどこれらとは無関係だと思うかもしれません。これは当てはまるけれども、これは当てはまらないとか、案外、自分では結構ましな人間だと思っている。そういうところがあるなと、自分で気づかされます。
一人一人違っていてよいんですけれども、泥酔ということになると、私のほうで言えば、お酒を飲まないので、「泥酔はないな」と、自分でこれは外すことができるんですね。遊興となると、少し引っかかる。
子どものころ、コリントゲームという子どもの遊びがありました。そのコリントゲームの行き着くところは、多分パチンコだと私は理解しました。パチンコの面白さというのは、そのコリントゲームというおもちゃの行き着くところだろうと理解したんですね。
パチンコ屋さんの店に入ってパチンコをやったことはないけれども、どこか旅行先の部屋にあったので、ぽんとやってみた。その事実は私にはあるんですね。私の気持ちの中には、やってみたいなという気持ちと、お金を払ってまでやりたくないなという気持ちと、両方があるので、今のところ、それにはまることは多分ないだろうと思います。
でも、いろいろなことを考えたときに、私たちの生まれながらの性質が罪に従っていって、神様の喜ばれることではないところに引かれる自分がいることは、間違いないんですね。パウロは「その行き着くところは死」と言って、そのような悲惨なところから、あなたがたは救いに入れられているんですよと教えてくださっている。
ローマ人への手紙六章二十二節では、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです」と言っています。イエス様を信じる者の行き着くところは、永遠のいのち。この永遠のいのちも、私たちは言葉だけでは、結構誤解している部分があります。
神によって造られた人間が、神様と共に、神様に生かされていることを喜ぶ。そういういのちを生きる者になっているんだということです。その意味での永遠のいのちであることを、忘れないようにしたいと思うんですね。
もう一つ、二十二節でパウロは、「聖潔に至る実を得ています」と言っています。この聖潔に至る実を、もう得ているんだ。イエス様にあって新しいいのちに生きるとき、もはや聖潔に至る実を得ている。だからこそ、行き着くところは永遠のいのちで、神様との親しい交わりの中で生かされる日々を、生きる者になっている。
私の中で、このパウロの勧めについて、十九節の最後では「聖潔に進みなさい」と言いましたけれども、二十二節では「聖潔に至る実を得ています」と言っていることに気づかされました。聖潔に至ることを心にして、そのような道を歩みなさい、そのために努力しなさい、励みなさいと言っているよりも、「もう既に、聖潔に至る実を得ているんですよ」という気づきを、クリスチャンたちに与えようとしているんだな、と教えられました。
キリストと共に生きる者になった。罪の奴隷から解き放たれて、義の奴隷、あるいは神の奴隷とされている者は、もはや神様の側に自分がいるということです。パウロは、「あなたがたは、もう神の子です。だから『アバ、父よ』と神様に祈ることができる」と、いろいろな言い方をしています。
もはや神様の側に私たちはいる。神様がいつも、どこでも共にいて、聖潔に至る実を得させてくださっている。その幸いを知ることが、私たちクリスチャンにとって、とても大事だと教えられます。
でも、もちろん、「聖潔に至る実を得ています」と断言されていることを、自分に当てはめて一生懸命考えれば考えるほど、少し戸惑う部分があります。「私は本当に、聖潔に至る実を得ているだろうか」。義と認められた私たちが、聖潔に進ませられることは分かるんですけれども、果たして本当の意味で、きよい者とされているだろうか。
つい、嫌なことがあるとかっとしてしまったり、人から嫌な言葉をかけられて、にこにこと話を交わすことができなかったり、昔のことを思い出して、もう忘れられなかったり。いろいろな自分自身のことを思い出すときに、果たして聖とされているだろうか。聖潔に至る実を得ているなんて言えるんだろうか。とても、まだまだだと思うんですね。
大切なことは、きっと、自分自身について、以前よりましになったとか、以前はかっとしていたけれども、このごろはあまりかっとしなくなったとか、自分で自分を褒めて、「確かに聖潔に至る実を自分が結んでいるな」と、自分のこととして考えるのではないんだと思うんですね。
おそらく教会の交わりできっと大事なことは、自分で何とかできているということよりも、教会にいるその人の姿を見ながら、「神様は確かに、その人に働いてくださっているな」と気づくことです。それが、実はとても大事なんだと思うんですね。
きっと私たちは、神様によって変えられ続けているんです。「あの人も昔はすぐ怒ったけれども、あまり怒らなくなった」とか、そういうことは、分かりやすい形で見えるんだと思います。私たちは、この地上で生かされている限り、神様によって聖潔に至る実を結ばせていただきながら、やがて天の御国へと迎え入れられる。そういう歩みをしているんだと、覚えておきたいと思うんですね。
教理的な言葉で言えば、これは聖化です。神様によってきよくされる地上の歩みを、私たちはする。ですから、この地上にいる限り、聖とされる歩みは途上なんですね。その途上の歩みが、天の御国に行くまで続いていく。
でも、神様は確実に、私たちをきよさに向かって進ませてくださっている。イエス・キリストの御姿に似る者に変えてくださって、やがて天の御国に迎え入れられるんだ。神様は、一気にぽんと完成させるのではなく、地上にいる限り、途上の歩みを進ませてくださるんです。なぜかは分からないけれども、聖書を読むと、神様は、やがて天の御国での完成を待ち望むように、私たちを歩ませてくださっている。
そこで気づき、教えられることは、私たちが神様の子どもとして、神様にきよくされた者として、自ら進んで神を喜び、自ら進んで神様を愛し、自ら進んで神様との交わりを喜ぶということです。強いられてではなくて、自ら喜ぶ。
献金をささげるにしても、賛美をささげるにしても、「こうすべきだから、こうします」ではなく、神様に愛された者として、自ら進んで、喜んで献金をささげる。人との関わりでも、自ら進んで、自分からその人に近づいていく。その「自ら進んで」という道を、神様は私たちに備えてくださっているんだと思うのです。
そのような神様の成してくださることに気づきながら、感謝をもって天の御国へと歩ませていただく。自分自身のことよりも、神様のこと、また一緒にある仲間のこと。そういう視点を養いながら歩むことが、大事なんではないでしょうか。
こうしたパウロの教えの結論として、二十三節には、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言われています。口語訳聖書では、「罪の支払う報酬は死である」と訳しています。罪の報いは死だということを、聖書は一貫して教えています。
「罪の報酬は死です」と言うときの死は、肉体の死ばかりでなく、霊的な死を含んでいることを覚えておく必要があると思います。霊的な死というのは、神様との関係が全く切れてしまった状態です。
何度も言いますけれども、花を見て、ただただきれいだと思うことと、神様がおられ、その神様が造られた花をきれいだと見ることの違いがあります。まさに、「罪の報酬は死です」と言うときの死は、神様との関係が全く切れているという意味での、霊的な死を含んでいる。その先には、神様の永遠のさばきも含まれている。そのことを忘れてはならないと思います。
罪の奴隷は、死以外のものを受けることはできません。けれども、キリストを信じて罪を赦され、義と認められた者には、神様の賜物として永遠のいのちが与えられています。要するに、神様を知り、神と共に、神様によって生かされているいのちを生きる。神様の御国につながるいのちだということです。
私たちはその幸い、祝福を、報酬として受けるのではなく、賜物として与えられています。この賜物として与えられる永遠のいのちによって、私たち人間は、人間としての本来のいのちを生きることになります。〔この後、奴隷の主人と幸不幸に話を戻すまでの部分は、文字起こしに欠落・反復があり、確定できません。〕
どのような主人に仕えるかによって幸か不幸かが決まる。そういうことに気づくようにと、一生懸命語っていたんだろうと思います。
神様の奴隷として、イエス・キリストを信じて罪の赦しを与えられた者として生きるとき、どんなに確かな主人のもとに導かれているかを忘れないでください、と語りかけているようです。奴隷にとって、どんな主人に仕えるのか。それによって幸不幸が決まります。
罪は人を不法に向かわせ、やがて死に至らせる。けれども、義の奴隷として歩むときに、私たちは聖潔に進ませていただき、永遠のいのちに至る。聖潔に至る実を既に得ている者として、生きているはずなんですね。
その自分自身の歩みについて、「自分でこうできた」とは決して言えないと思うんですけれども、神様はそれを私たちのために備えてくださっている。その意味で、聖潔に至る実の中身はどういうものかというと、ガラテヤ人への手紙五章二十二節以下に、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。
ときどき、聖書を開かないで全部言えるかどうか、自分で試すことがあるんですけれども、昔、子どもの賛美で歌って覚えたんですね。ハワイアンの曲に合わせて。今は歌いませんけれども、そんな感じです。
最初の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実」までよりも、「柔和、自制」という最後の二つのほうが、私にとっては、自分で気をつけるべきことかなと、そんなことを思うときがあります。自制というのは、いつでもとても必要なことなんだな。歌いながら、そこまで行き着かないときがあったり、忘れている自分がいたり、そんなこともあるんですけれども。
神様は、こういう実を私たち一人一人に結ばせてくださっている。そのことを覚えながら、感謝をもって日々を生きることが大事なんではないかなと、つくづく思います。
世の中は誠実ではない。いろいろな現実をいっぱい見せられながら、私たちは過ごしています。もう最後にしますけれども、ニュースを見ていると、果たして、もう嘘ばかり言っているなと、そういう世の中だと感じさせられます。
私たちは、自分の語る言葉が真実であるように、また誠実であるように。そして、穏やかであること。ちょっとしたことで、かっとしない。神様によって本当に導かれた日々を、歩ませていただきたいと思います。