礼拝説教要旨 2026年10月4日

過越の祭り

(ルカ 22:1-13)

ルカの福音書は、この22章から、いよいよ、イエス様が十字架にかけられるその時に向かって、物事がひとつひとつ、具体的に進んでいく場面となります。一見、イエス様をなき者にしようという大祭司たちの魂胆が着々と進んでいるように見えますが、実は神はすべて、お見通し。むしろ、神がこの世界をお造りになる前から立てておられた、永遠のご計画こそが着々と進んでいるのでした。

1-2節。1節の「過越の祭りと言われる、種なしパンの祭り」というところに大きな意味があります。イエス様が十字架にかかられるのが、たまたま、この時だったというのではなくて、まさしくこの時である必要がありました。詳しくはあとで説明します。2節では、祭司長、律法学者たちがイエス様をなき者にしようと、「良い方法」を探していたとあります。民衆はイエス様を神から遣わされた救い主メシア、救国の王キリストと思っていましたから、力づくで人々の前でイエス様を捕縛すると、自分たちが石打ちにされかねない。それで、群衆に知られないように、ひそかに事を運べるように、策を練っていたのでしょう。その、彼らの望んでいた「良い方法」は、サタンによって与えられました。

3-6節。祭司長たちからすれば、渡りに船。イエス様の側近中の側近、十二弟子の一人、が寝返って、自分たちの協力者になるという。その男が、群衆がいないときを狙って、彼らにイエス様を引き渡すと。その裏切り者の名はイスカリオテのユダ。どうしてそんなことになったのか。聖書は、イスカリオテのユダにサタンが入ったからと伝えています。サタンは、普通に信仰生活を送っている人に、いきなり、一方的に入ることはできません。日頃から罪を犯し続けて悔い改めず、悪の中にとどまり続けていると、サタンに対して扉を開くことになるのです。他の福音書によると、ユダはイエス様一行に献げられたお金を盗んでいました(ヨハネ12:6)。そして5節には「彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした」とあります。お金に対する欲、罪を入り口としてサタンがユダに入り、そしてそこを突いて、イエス様を売り渡すという狂気の沙汰に駆り立てたのではないかと思います。罪の中にドップリととどまり続けて、そのうち罪悪感もなくなって、良心が麻痺すると、サタンに隙を与えることになります。サタンに心を乗っ取られたら、破滅です。ですから、罪に身をゆだねてしまってはいけません。クリスチャンの特権の一つは、何度でも悔い改めれば赦されることです。悔い改めるべきことがあるなら、ためらわず、臆せず、すみやかにイエス様の御前で悔い改めましょう。悔い改めも、聖霊による神のみわざです。恵みです。悔い改める者を、イエス様は祝福して下さいます。「悔い改めたら神の国」です。

ところで、こうしてみると、大祭司たちとサタンの悪だくみが着々と進んでいるように見えます。しかし他の福音書によると、このとき、大祭司たちは「祭りの間はやめておこう。群衆が騒ぎ出すといけないから」と考えていました(マルコ14:2)。それが実際には彼らの意に反して、過越の祭りにイエス様が十字架にかけられました。それが神のご計画だったからです。主導権を握っているのは神だったのです。大祭司の悪意も、ユダの裏切りも、神のご支配の外にあることではない。すべては神の御手の中にあることであり、神のご計画に従ってすべてが用いられ、神の御心だけが成るのです。人の悪や罪も、神は良いことのために用いることがおできになるのです(創世記50:20)。

大祭司たちの悪だくみの一方で、神が着々とご計画を進めておられることは、次のエピソードでも伺われます。7-13節。当時、エルサレムは世界中から過越のために集まった巡礼者で溢れかえっていて、宿や客間を確保するのは難しかったと思われます。しかもこの時、十二弟子のほかにも弟子たちがいたと思われます。ある時、イエス様は72人の弟子たちを福音宣教のために遣わしました(10:1,17)。とすれば、そんな大部屋を確保するのはなおさらです。しかし神はイエス様たちのために「席が整っている二階の大広間」を用意していました。この落ち着いた場所で、イエス様は弟子たちに最後の説教をされ、そして教会が代々にわたって守っている聖餐式を制定されました。神はどんな時でも、どんなところにでも、ご自身のご計画を進めるために必要な備えを用意しておられます。

最後に「過越の祭り」「種なしパンの祭り」について。これは本来、別の祭りですが、常に二つセットで行われるもの、密接にくっついて不可分なものなので、いつしか、どちらか一方の呼び名で両方を表すようになりました(マルコ14:1)。祭りには故事となるものがあるものですが、この祭りは元々はイスラエルの民がエジプトで400年間、奴隷だったところから、主なる神が彼らを救い出されたことを子々孫々、忘れないようにするために定められた祭りでした。その頃、エジプトではイスラエル人に生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込め、とか、炎天下、無理な量のレンガ造りを課されては、鞭打たれ、虐げられていました。そんな彼らを主なる神があわれんでくださり、エジプトに対する裁きを行って、イスラエルの民を救い出されました。その次第はこうです。

その日、主は人々を裁くためにエジプトの全地を巡り歩くと言われました。その際に、イスラエルの民には、家族ごとに、1歳の傷のない雄羊をほふり、そしてその血を取って家の門の両側にある二本の柱と、その二本の柱の上に渡してある、かもいに塗るよう命じました。その夜、主がエジプトの地を巡り、人をはじめ家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ちますが、そのときに、家の門とかもいに塗られている子羊の血を見たら、その家は裁きを行わずに過ぎ越すと言われました。「過越の祭り」はここから来ています。神の裁きが下るか、裁かれずに済むか。死と生を決めるのは、その傷のない子羊の血が塗られているか、いないか。その一点にかかっています。その血が塗られた門の中にいる者は、みな安全。富も権力も力も、何も関係ありません。ただその子羊の血が塗られた門の中にいるか、いないかだけが、運命を分けるのです。イスラエル人がきよいから、救われるのではありません。罪のない人はいません。彼らも神の裁きを受けたら滅びます。ただ、彼らには、裁きを免れる方法が教えられたのです。そのことばを信じて従って、滅びから免れたのです。逆に、たとえイスラエル人であっても、主が教えて下さった救いの方法を、なんだそんなもの、と拒否して、子羊の血を門に塗らなかったら、裁かれたのです。

では、なぜ神はその血を見て、通り過ぎて下さるのか。単なる目印ならペンキでもいいはずですが、それではダメ。傷のない子羊の血でなければいけません。なぜなら、それはイエス・キリストが十字架で流された血を表すものだったからです。イエス・キリストは、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架にかかって、裁きを受けて下さいました。そのことを信じる者は、その心に、いわばキリストの血が塗られたのです。それで、このとき、主が門の柱とかもいに塗られた血を見て、その家を通り過ぎてくださったように、神は、私たちの罪に目を留める代わりに、キリストのきよい血に目を留めて、私たちを裁きから免れさせて下さるのです。あの家の中にいる者は、誰でも救われたように、キリストが十字架で死なれたのが自分のためだと信じるなら、誰であれ、神の裁きを免れ、救われるのです。これは神が私たちのために備えてくださった救済措置です。出エジプトの時、子羊の血が塗られた門の家の中にいるか、外にいるか、その一点に救いがかかっていたように、永遠の神の裁きにおいても、私たちの心に、キリストの血が塗られているかどうか、その一点に永遠の運命がかかっています。キリストを信じて、心にキリストのきよい血潮が塗られたら、神の裁き、神の御怒りから救われるのです。そして実は、永遠の裁きの時だけでなく、信じたその瞬間から罪赦された者として神に受け入れられ、神の愛する子どもとされます。

イエス・キリストが十字架にかかられたのは、この過越の子羊がほふられる過越の祭りの日でした。それは偶然ではありません。イエス・キリストこそ、世のはじめから、世の罪を取り除くために神が備えて下さっていた、過越の子羊です。

次は種なしパンの祭り。過越でほふった羊は、料理してその夜、食べます。その時に一緒に食べられるのが、パン種(イースト菌)が入らないパンでした。そしてその日から七日間、パン種の入らないパンを食べなければならないと、されていました。それで種なしパンの祭りと言います。ですから、過越の祭りの日が、種なしパンの祭りの一日目ということになります(マルコ14:12)。過越の祭りは一日だけですが、種なしパンの祭りは七日間続きます。

過越の祭りは、キリストが流される血によって、罪の赦しが与えられることを表していました。それと同時に始まる種なしパンの祭りは、何を表しているのでしょう。パン種は、罪を象徴していました。それで、種なしパンの祭りは、罪を取り除く、きよい生活を表します。第一コリント5:7-8。パウロはコリントの教会にこの二つの祭りを当てはめました。

5:7 (あなたがたは)新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の子羊キリストが、すでにほふられたからです。

5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

過越の祭りと種なしパンの祭りは、連続する一つの祭りだったように、キリストの十字架の血による赦しと、それに続く聖い生活は切り離すことのできない、ひとつのものです。私たちが聖い生活を送ることができるために、神は聖霊を私たちに注いでくださいました。キリストを信じた者には、神は聖霊を注いでくださいます。聖霊の力によって、私たちの心が新しくされ、きよめられていきます。聖霊なしに、きよい生活はできません。聖霊の力によって、古いパン種―古い自分の考え方、性質、苦々しい思いなどーを捨て去って、純粋で真実な思いで新しい歩みをする。それが主が望んでおられることです。

「 十字架の血に きよめぬれば 」 新聖歌 45番

過越の祭りと種なしパンの祭りは、教理の言葉でいうと、義認と聖化です。両者は切り離せません。義認は聖化の出発点であり、土台です。罪を犯したらアウトということではありません。罪を犯さない人はいません。何度でも、その都度、主の前に告白して、キリストの血による赦しを確信して、また立ち上がればいいのです。第一ヨハネ1:7-9。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

聖化は、いわば霊のリハビリです。身体のリハビリでも、始めたからと言って、すぐ次の日に飛んだり跳ねたりできるようになるものではありません。最初のうちは痛かったり、転んだりしながら、それでも、途中でやめずに根気よく続けていけば、やがて少しずつ、良くなっていきます。立てなかったのが、立てるようになる。一歩、歩けるようになる。1m、5m歩けるようになる。昨日までできなかったことが、ある日、できるようになるのは、うれしいものです。私たちの霊のリハビリも、根気よく続けることで、長い目で見れば大きな成長を遂げているものなのでしょう。それを誰よりも喜んで下さるのは、天の父であり、イエス様です。主に信頼して、生涯、霊の種なしパンの祭りを続けましょう。

* * *