<はじめに>
今日のウェルカム礼拝のチラシに次のような文章を書きました。「近年、目にするニュースに、不安を感じる方は少なくないのではないでしょうか。世界各地の異常気象や大地震、それに物騒な世界情勢、また身近なところでも物価高やその他の社会情勢に心細さを感じることもあるかもしれません。この時代に私たちはどこに心のよりどころを求めることができるのでしょうか。」今年は毎週のように豪雨による被害のニュースを目にします。アンダーパスみたいな場所だけでなく、住宅街でも車が冠水しています。これは今までにはなかったことです。先日、あるところで、そういう想定外のことが起きて困りますね、などと言っていたら、ある方が「災害は想定外のことが起こるものだと思っていないと。」と言われました。確かに、「過去の経験が役に立たないほどの雨」などと言う言葉も耳にします。
災害などは、なるべくあってほしくありませんが、こういうことというのは、私たちがコントロールできないことです。災害に限らず、私たちの人生には、自分のコントロールできないことがたくさんあるのではないでしょうか。しかし私たちはつい、自分のコントロールできないことまで心配してしまいがちです。それは大きなストレス要因です。
イエス様は、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」と言われました(27節)。それは人間の力の及ばないところ。コントロールできないことだと。その上で、それは、神の御手の中にあることですよ、すべてを治め、ご支配なさっておられる神に信頼しなさい、と教えられました。私たちはできることには限界がある。しかし、私たちを愛しておられるお方がすべてを治めて、ご支配なさっておられる。みなさん、これが本当なら、どれほど心強いことでしょう。神が私たちの味方であるなら、これほど心強いことはありません。どんな状況になっても、後ろから、「大丈夫。わたしがついている。恐れなくていい。」と声をかけてもらっているのです。こう言う感覚って、大事だと言いますね。
<信仰−信じることの力>
ところで、みなさんは「信仰」と聞くと、どういうイメージを持たれるでしょうか。日本人は宗教に対して良いイメージを持っていないなどとも言われます。しかし、信じることには大きな力があります。たとえば、薬の成分の入っていないただの粉でも、患者が「これは効く薬だ」と信じて服用することで、実際に痛みが和らいだり症状が改善したりすることがあります。また、スポーツの世界で、「自分にはできる」と信じる力はパフォーマンスを大きく左右します。たとえば、陸上競技で「1マイル4分」という壁があったそうで、長年、人間には肉体的に不可能な限界だと信じられていました。しかし1954年にロジャー・バニスターが初めて4分の壁を破りました。すると、バニスターが破ったわずか46日後、ジョン・ランディも4分を切りました。そしてその後、4分切りは急に珍しいものでなくなっていき、その後わずか数年のうちに何人もが4分の壁を突破しました。「人間にはできない」と信じられていたことが、誰か一人によって「できる」と証明されたとたん、他の人々もそれができると信じるようになり、実際にできるようになった。「信じる力」の実例です。
次はイソップ物語から。ある貧しい農夫が病に倒れ、死期を悟ったとき、怠け者の息子たちを呼び寄せて言いました。「我が家のぶどう畑には、素晴らしい財宝が埋めてある。死んだら探して掘り起こしなさい」父親が亡くなった後、息子たちは父親の言葉を信じて、ぶどう畑を隅々まで深く掘り返しました。しかし、どれだけ探しても宝の箱などは出てきません。がっかりした息子たちでしたが、深く耕された畑からは、その年、見事なぶどうが大量に収穫できました。そのとき初めて、息子たちは父親が言っていた「財宝」の意味を悟りました。父親が言っていた宝とは、彼らの労苦とその労苦の成果でした。彼らは父親の言葉を信じたからこそ、暑い日差しの下、労苦して、固い土を掘り進めることができました。
精神科医のヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所を生き延びたユダヤ人でした。彼の考えは、人間は苦痛そのものを選べるわけではないが、その苦痛に対する態度をある程度選ぶことができるというものでした。彼にとって重要だったのは「人生には意味がある」という信念でした。意味を信じることが、絶望的な状況の中で生きる力を与える精神的な支柱になる。同じ出来事でも、「なぜ自分だけこんな目に遭うんだ」ととらえるのと、「これは自分の人生の中で意味を持つ経験なのかもしれない」ととらえるのでは、心の持ち方が違ってきます。また、収容所で生き延びる人について、フランクルは、単純に「体力の強い人」だけが生き残るのでなく、家族にもう一度会う、完成させていない仕事をする、誰かに伝えたいことがある、といった未来への希望や、自分を待っている何かが、人を苦難に耐えさせることがあることを見出しました。
聖書に、こんなみことばがあります。「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)。苦難の時には、ともすると、気持ちまで落ち込んでしまいがちかもしれませんが、気持ちが落ち込んだら、力も出なくて、ますます悪循環。苦難の日にこそ、気落ちしないで、未来を信じて希望をもっていられたら、それは力となる。ということは、苦難を乗り越える可能性が高くなる。アメリカで社会学者のグループが、希望と生き延びる力の関連性を探るため、ドブネズミを使った実験を行ったそうです。ちょっとかわいそうなのですが、一方のグループのドブネズミは、水が降り注ぐ大きな容器に入れられました。これらのドブネズミは、平均17分間生き延びました。もう一方のグループは、溺れそうになる直前に引き上げられました。そして数日後、再び水の中に入れられました。すると今度は、なんと平均して36時間も生き延びました。17分と36時間。その差をもたらしたのは「希望」です。私たちが暗闇や試練の中を歩むとき、未来への希望が大きな力を与えてくれます。苦難の日に気落ちしないように支えてくれるのは希望です。そしてどんな状況でも消えることのない希望を生み出すのは、信仰です。
<何を信じるか>
さて、信じることには大きな力があると言いましたが、信じさえすれば何でもいいというわけではありません。「イワシの頭も信心から」と言いますが、やっぱりイワシの頭ではどうにもなりません。本物の名医はある程度、信頼するのはいいとして、ヤブ医者を信じてしまったら大変な目に遭います。信じる相手を選ばないといけません。
私たちは、この世界を造られた神を信じています。神がお造りになった自然は、神の測り知れない知恵と力と、そして慈しみに満ちています。空の鳥を養い、野の花を美しく着飾らせておられる。ときどき、昆虫や動物の生態や、人体の驚くべき仕組みの番組がありますが、それを見て、あまりに絶妙に、うまくできていることに感動を覚えた方も少なくないでしょう。それはうまく「できている」のでなく「造られている」のです。人間の体の仕組みは、まさに奇跡の集合体で、そこには計り知れない知恵と力と、そして命に対する慈しみが見て取れます。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、人体の仕組みをつぶさに見ていくと、これは神が造ったとしか思えないと言っています。
そしてすべてをお造りになった神は、造りっぱなしではなくて、すべてのものを治めておられます。ご支配なさっています。この方のお許しなしには、雀一羽、地に落ちることがありませんと、イエス様は教えられました。雀一羽の生き死にまで偶然ということはないということです。これも驚くべきことではないでしょうか。
そして、このすべてをご支配なさっている神が、私たちを愛しておられると私たちは信じています。ここに私たちは立っています。その上で、神のお許しなしには雀一羽、地に落ちることがないと信じているのです。自分のことをどう思っているかわからない神、何をするかわからない神ではなく、私のことを確かに愛しておられる神がすべてをご支配なさっていて、この方のお許しなしには、雀一羽、地に落ちることがないと信じているのです。先ほど読んだ聖書のみことばにありましたように、神は空の鳥、野の花にも、これを慈しみ、いとおしんで、養い、美しく着飾らせておられることを、見て取れます。26節。そして28-30節。
もちろん、神を信じていても、苦難に遭うことはあります。しかし、その場合は、私たちを愛しておられるお方が、その苦難が起こることを許されたということです。すべてを支配し、私たちを愛しておられるお方が、その苦難を私にお与えになったということです。それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちの益となるため、感謝に至らせるため、最後はハッピーエンドにするためです。そのゴールは確定しています。フランクルが言う「意味」が保証されます。これを信じることが力となります。気休め程度に覚えておくだけでは力になりません。実際に試練にあったとき、そんなものは吹っ飛んでしまいます。本当に信じるということは、そのような試練の中で、そこに立つということです。その信仰が私たちに希望を与え、耐えさせ、ついには乗り越えさせてくれます。もっと言えば、私の方が力尽きて、信じられなくなったとしても、なお、神の方は私を放さない。それほどに私たちを絶対的に愛しておられるお方として、神を信じています。
<神の愛を保証するもの>
でも、神が私たちをそれほどまでに愛しておられることが、どうしてわかるのか。自分で勝手に思っているだけではないのか、と思う人もいるでしょう。私たちはそのことをイエス・キリストの十字架と復活という歴史的事実によって、知ることができるのです。聖書によると、すべての人は神の前に罪ある者です。罪があるままでは、神に受け入れられることができず、その行き着く先は死、永遠の滅びです。しかし、私たちを愛してやまない神は、そのまま私たちを失うことは絶対にできないと、私たちのために、尊い御独り子イエス・キリストを世にお遣わしくださいました。神の御子キリストは、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださいました。私たちが受けるべき裁きをキリストが身代わりに十字架上で受けてくださって、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。どこの教会にもある十字架は、その意味です。このキリストの十字架の身代わりの死によって、私たちは罪赦されて、神に受け入れられました。神の子どもとされました。そして、永遠の命を与えられました。また、神は、十字架の後、三日目に、キリストを復活させました。当時、証人がたくさんいました。十分な証言が残っています。このキリストが事実、復活されたことによって、死者の中からさえ、復活させる全能の神がおられることを実証してくれました。そして永遠のいのち、死んでも生きるいのち、復活があるということを、理屈でなく、実際に実証して、見せてくださいました。キリスト教は、このキリストの十字架と復活という歴史的事実の上に立っています。蜃気楼で見える建物は、どれほど立派でも、より頼むことができません。机上の空論、希望的観測、人間が考え出した思想には、心からより頼むことはできません。イエス・キリストの十字架と復活は歴史の中で現実に起こった出来事です。
<愛の神は いかなる時にも> 新聖歌311番
人生にはいろいろなことがあります。想定外のことも起きます。「上り坂」「下り坂」「まさか」の三つの坂があるといいます。しかし、私たちのために、尊い御独り子を下さるほどに愛しておられる方が、すべてを治め、支配しておられる。このことを信じることが、私たちに試練の中で力を与える支えとなります。これが今日の話の結論です。
最後に、ハイデッカーという哲学者は、「人は、オギャーと生まれた瞬間から死と隣り合わせである。」と言いました。最終的には、すべての人に、いつか、確実に訪れる「その時」への備えが、すべての人に必要です。その備えも神は与えて下さっています。本当はまず真っ先に、その備えをしておくべきだと思います。イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを頂くこと。これが何にも勝って第一に必要な備えです。