前回は、ルカの福音書21章5〜24節から、エルサレムの終わりについて見ました。今日の25〜36節は、世の終わりについて語られています。紀元70年にエルサレムに対して神のさばきが下されたように、聖書はこの世界にも終わりの時があることを教えています。しかし同時に、悔い改めてイエス・キリストを信じる者には、確かな救いが備えられていることも語られています。
25〜26節には、太陽と月と星にしるしが現れ、海と波が荒れどよめき、人々が恐ろしさのあまり気を失うほどの出来事が記されています。この箇所には二つの代表的な理解があります。一つは、太陽・月・星や海を象徴として読み、世界的な国家や社会秩序の崩壊を表すと考える理解です。旧約聖書には、国や帝国の滅亡を天体の異変になぞらえて語る箇所があります。もう一つは、文字通り自然界そのものに大きな異変が起こると考える理解です。古い世界が過ぎ去り、新しい天と新しい地が現れることと結びつけて読む立場です。どちらの理解を取るにしても、世界が根底から揺り動かされるような出来事が起こるという点では共通しています。
けれども、そこで終わりではありません。27節には、「そのとき、人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る」とあります。「人の子」とはイエス・キリストのことです。キリストが再び来られるとき、主は御使いたちを遣わし、ご自分を信じる者たちを一人も取り残さず集めてくださいます。ですからイエス様は、これらのことが起こり始めたら、恐れに圧倒されるのではなく、「身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです」と言われました。
ここでいう「贖い」とは、苦しみからの解放であり、救いの完成です。そのとき、私たちは栄光のからだによみがえり、罪と罪がもたらすすべての苦しみから完全に解放されます。世界そのものも新しくされます。被造物も罪の影響から解放され、神の正義の住む新しい天と新しい地が実現します。世の終わりは、単にすべてが壊れて終わる時ではなく、神の国が完成する時なのです。
29〜31節で、イエス様はいちじくの木とすべての木のたとえを話されました。木の芽が出れば、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近いことを知りなさい、と言われます。芽吹きは、滅びのイメージではなく、新しい命と希望を感じさせるものです。夏はまた収穫の季節でもあります。それまでの労苦が報われ、実りを喜ぶ時です。神の国の完成も、そのような喜びの時として語られています。
それでも私たちは、「本当にそんなことが起こるのだろうか」と思うかもしれません。そこでイエス様は33節で、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」と言われました。私たちが変わらないものと思っている天地さえ過ぎ去ります。しかし、イエス様のことばは決して過ぎ去りません。すべてが揺り動かされる時にも、最後まで確かなよりどころとなるのは、主のみことばです。
最後にイエス様は、終わりの日に備える心構えを教えられました。34〜36節です。「放蕩や深酒や生活の思い煩い」で心が押しつぶされ、その日が罠のように突然来ることのないよう、よく気をつけなさいと言われます。そして、「必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命じられます。
ここで「逃れる」とは、苦しみに一切遭わないという意味ではありません。さまざまな困難や誘惑の中でも信仰を保ち、滅びから救われて、最後にキリストの前に立つということです。また「目を覚ましている」とは、二十四時間眠らないということではなく、神に対して意識を閉ざさず、神を覚えて生きることです。祈り、聖書を開き、礼拝をささげ、日々の生活の中で神を愛し、隣人を愛する。そのように、特別なことではなく、それぞれ置かれた場所で地に足をつけて、神の前に歩むことが大切なのです。
世の終わりは、キリストを知らない人にとっては恐ろしい時として描かれています。しかし、キリストを信じる者にとっては、愛するイエス様が迎えに来てくださる時であり、待ち望んだ神の国が現れる時であり、私たちが人の子の前に立つことのできる時です。どのような混乱が世界を襲うとしても、それは古い世界が過ぎ去り、神の国が完成へと近づいていることを示しています。
そして、その新しい世界、神の国を受け継ぐ恵みは、すべてキリストの十字架のみわざによって、賜物としてただで与えられたものです。私たちがイエス様をお慕いする以上に、イエス様の方が、私たちが御前に立つ日を待っていてくださるのではないでしょうか。このイエス様の恵みこそ、私たちの救いのすべてです。