礼拝説教要旨 2026年9月6日

生きる手立てのすべてを

(ルカ 20:45-21:4)

説教(2026.9.6)

イエス様が十字架にかかられる数日前、宮の中での場面が続きます。45節。祭司長、律法学者たちは、ますます殺意を募らせる一方で、人々はますます熱心にイエス様の教えに耳を傾けていました(19:47-48)。イエス様を取り囲んで熱心に聞いている群衆を眺めながら、弟子たちの胸は高鳴っていたことでしょう。いよいよ、イエス様がメシア、キリストとして立ち上がられる日が近づいている。彼らが夢見ていたのは、この世的な繁栄、王国で、自分たちはその王となられるイエス様の側近中の側近として、それなりの地位に着くはずと鼻息も荒かった。ほかの弟子たちを蹴落としてでも、良いポジションに…とさえ思って、神経をとがらせてさえいました(マタイ20:20-21,24,ルカ22:24)。このとき、イエス様は十字架に向かっておられたと言うのに、その事をこれまでにも何度も言ってきたのに、弟子たちの心はイエス様とはまったく反対の方を向いていました。このときの弟子たちの心は、この世的な成功、良い目を見ることでいっぱいでした。そしてそんな弟子たちのためにも、−私たちのためにも−イエス様は十字架にかかられるのでした。

そんな、人々からあがめられることを夢見ていた彼らに、イエス様は注意を与えられました。46-47節。「律法学者」はモーセが主から受けた律法をはじめとする旧約聖書の専門家。専門の学校を出て、律法の知識を認められた人です。現代では、聖書の専門家と言っても、せいぜいキリスト教界の中で意味があるのであって、一般の社会では特別なことはありませんが、当時は社会全体が宗教的な社会で、律法が生活を律するもの、こんにちで言う法律でしたから、律法学者はいわば法律の専門家、弁護士のような存在でもありました。社会的に力があったわけです。で、ここにはそんな彼らの生態が6つ挙げられています。「長い衣を着て歩き回ることが好きで」「長い衣」とは、律法学者であることを表わす衣裳。一目で、あの人は律法学者だ、とわかるような服装。で、彼らは、この長い衣を着ることではなく、それを着て歩き回ることが好きだと言います。見せびらかしたい、自慢したいということです。続く三つも同じことです。「広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます」自分が一目置かれる存在であること、あがめられることが好き。「やもめの家を食い尽くし」ここは財産のあるやもめのことだろうと思われます。そこに触手を伸ばして、律法に無知な彼女たちに、もっともらしいことを言ってだまし取ったのでしょう。そして「見栄を張って長く祈ります」長く祈ることが悪いのではありません。見栄を張って、ということが問題なのです。彼らにとって、神に向かって祈ることそのものではなく、自分がどう思われるか、が大事。それが長い祈りの目的、動機になっているということです。それは、たとえ口からは敬虔な、熱烈な信仰のことば、あるいは美辞麗句が途切れることなくほとばしり出たとしても、それはもはや祈りではなく、単なるひとり芝居です。むしろ、途切れ途切れでも、短くても、心からのことばの方が、真実な祈りです。

最後に、こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです、と主は言われました。同じ罪を犯しても、立場によって、その罪の重さは違います。同じことをしても、子どもがしたのと大人がしたのでは違うように。宗教指導者たちは、聖書を良く知り、人々に神のことばを教える立場ですから、その偽善や立場を利用した犯罪は、一層、厳しくさばかれます(ウェストミンスター大教理問答150-151参照)。すべての律法の中で、最も大切な戒めは、神への愛と隣人への愛ですが、律法の専門家である彼らはその正反対のことをしていました。

このことを、イエス様はこのときの弟子たちに語られました。あなたがたも、こうならないように、気をつけなさいと。特にやがて、福音が広がり、彼らは使徒として全教会を治める立場に着きます。人からあがめられ、高慢になって、神を忘れる危険は他人事ではありません。これらは、律法学者たちだけのことではありませんでした。誰でも陥ってしまう落とし穴です。また、そういう立場の人に限らず、誰でも、いつの間にか、生きておられる神を忘れて、人だけを相手にしてしまうということがあります。礼拝、奉仕、献金など、本来、生きておられる神への思いをもって、神を意識してささげられるべきものです。そこがいのちです。その神との生きた関係があるからこそ、そこに他にはない天来の喜びがあります。イエス様は他のところで、祈るときは誰にも見られないように、奥まった部屋で祈りなさいとか、施しをするときは、誰にも知られないようにしなさいとか、断食する時も人に断食していることがバレないように顔に油を塗って、顔色を良くしなさい、と仰っています。いつの間にか、人を相手にして、人にアピールするためにこれらをするようになって、肝心の神ご自身を見失ってしまわないように、ということです。

使徒パウロは晩年になっても、ますますキリストの恵みがあふれていると、喜んでいました。キリストとの関係が色あせたり、冷めたりしませんでした。その秘訣は、福音にとどまり続けることです。第一テモテ1:13-16 「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」キリストが、私たちのためにして下さったことを忘れないようにしましょう。

21章に入ります。この律法学者たちの偽善ぶりと対照的なのが、ある貧しいやもめでした。宮の広い庭に13個、ラッパのような広い口をした、献金を投げ入れる容器があったそうですが、そこでの一コマです。1-2節。金持ちたちは銀貨や金貨などの価値の高い貨幣を投げ入れていたのでしょう。そこへある貧しいやもめが来て、握りしめていたレプタ銅貨を二枚、投げ入れました。レプタ銅貨は当時の最小単位の貨幣で、一日の労賃の128分の一の価値だったと言います。今でいうと数十円と言ったところでしょうか。金貨や銀貨と違うことは一目でわかります。まわりの金持ちたちが金貨・銀貨を投げ入れている間にはさまれて、レプタ銅貨二枚を投げ入れるということも、人によっては勇気の要ることかもしれません。周りの金持ちたちからは鼻で笑われたかもしれません。しかし、イエス様は、彼女のその行為を目ざとく見つけると、最高のほめことばをもって彼女をたたえました。3-4節。

「まことに、あなたがたに言います」は、これから大切なことを言うから、注意して聞きなさいというときの言い方です。ここの「あなたがた」は弟子たちのこと(マルコ12:43)。将来、教会を治める立場になったときに、献金の額で信徒を見るような者になってはいけないと戒めておられるのでしょう。どこかの教会では、たくさん献金した人が長老に選ばれて、たくさん献金していない人は選ばれないと聞きますが、それは教会のかしらであるイエス様のみこころからかけ離れています。イエス様は、わずか2レプタを献げたやもめを、他の金貨・銀貨を投げ入れた大勢の金持ちよりも、多く献げたと言われました。主は、献げた額でなく心をご覧になるということです。これは献金の大原則中の大原則です。

では、その心とはどういう心か。4節を見ると、金持ちたちは「あり余る中から」献金していました。痛くもかゆくもないものを献げたということです。今の必要も将来の蓄えも十分にあって、100万円献金しても、生活に何の支障もきたさない人が、100万円を献げたようなものです。「あり余っている中から」ですから。何の痛みも犠牲もない献金。金額だけ見れば、それは確かに大金です。しかし神の目には、それほど価値がない。神は金額でなく心をご覧になるから。それに対して、このやもめは、金額はわずか2レプタですが、これがこの時の彼女の持てる生活費のすべてです。調べてみると、当時、一日分のパンひと固まりが、数十レプタという記録があるそうですから、2レプタでは切り売りしてもらって、小さな一切れをやっと買えるかどうかでしょう。また以前、2羽の雀が1アサリオンで売られているとありましたが、レプタに換算すると、1羽の雀が4レプタになります。2レプタでは雀1羽、買うことができません。金額だけ見れば、確かに小さな金額です。しかし、彼女はそれを乏しい中で献げました。それは痛みを伴うことです。大きな犠牲です。あり余る中から献げるのとは全然違います。また「持っていた生きる手立てのすべてを」とあります。わずか2レプタ、数十円が、「生きる手立てのすべて」。彼女たちは、施しなどで与えられたお金は、普段からできるだけ使わないようにして、パンも一日に一切れとか、我慢してつないでいたのでしょう。そうして手持ちがなくなる前に、次の施しが与えられるのを祈るしかない。となれば、次の施しが与えられるまでの大切な大切な2レプタです。この2レプタは彼女にとって命綱です。その大切な大切な最後の2レプタを、彼女は神に献げたのです。これは神への献身を表しているのだと思います。献金は、献身の表われでもあります。長老教会の礼拝指針の中にも、「献金は感謝と献身の表われ」とあります。イエス様がここで賞賛されたのは、彼女の献身の思いなのだと思います。

「 主は命を 与えませり 」 新聖歌102番

改めて言うまでもありませんが、みなさんは全財産を献げないでください。ここの教会は、そういうところではありませんから。この教会は額や割合を決めずに、それぞれが心に定めた分を主に献げるということで、ずっとやってきていると思います。私の母教会では什一(じゅういち)献金を教えられてきました。収入の十分の一を献げるというやり方です。旧約聖書の中で、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を献げたこと(創世記14:22)、ヤコブがベテルで、主から与えられるすべてのものの十分の一を献げますと誓っていること(創世記28:22)、またモーセ律法の中ですべての地の産物の十分の一は主のものであるとあると言われていること(レビ27:30)などが根拠とされます。が、新約の時代はもちろん、それを律法として守らなければならないということではありません。神から与えられている豊かな恵みに応答して、喜ばしい心をもって、心に決めた分を献げます。ただ、新約の時代でも什一献金をしていることにも意味があって、十分の一というのは絶妙な割合だと思います。それで、まったく生活できなくなるということではないけれども、痛みを感じる額だと思います。十分の一でも生活が成り立たないという場合は、それが千円でも二千円でもいいのですが、とにかく生活ができなくなるわけではないけれども、痛みを感じるというところ。それがあったらあれを買える、こういうこともできる、というのがあるでしょう。我慢しなければいけないところが出て来る。その痛みを感じるときに、私たちのために十字架にかかられたイエス様の痛みを思うのです。また、我慢しなければいけないところも出て来るけれども、すべての必要は神が満たして下さるし、あらゆる良いものをもって楽しませて下さる神に信頼するということも、パウロは勧めています(第一テモテ6:17)。いづれにせよ、無理をする必要はまったくありませんが、「あり余る中から」何も影響のない範囲でというよりは、多少の痛みを感じる程度で継続的に献げるということが、イエス様とともに十字架を担うことの一つの表われであり、献身の一つの形なのだと思います。

この貧しいやもめは、自分の生きる手立てのすべてを神に献げました。しかし、この数日後、イエス様が私たちを愛して、私たちのために、ご自分のいのちを惜しみなく献げられました。イエス様は、天の栄光を捨て、貧しい姿となってこの世に来られ、十字架の上で、私たちの罪の赦しのために、ご自分のいのちを献げてくださいました。まず何よりも、その、イエス様の十字架の愛を知ることが、献身・献金の原点・原動力です。

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